みどりのおじさん(タカタカコッタ)
凍てつく寒さが容赦なく霧のように立ち込める12月の朝、そこにあってはならないものが、そこにあった。登校してきた生徒たちで賑わうだだっ広い校舎の土間で、それがおかれている一角から1メートルほど距離をとって、がやがやとした人だかりができていた。興奮している男子、目を逸らす女子。泣き出した下級生をかばう上級生。生徒たちは様々な反応を示しながら、それでもやっぱりこの非日常にたかぶっていた。5の1の靴箱の上に、鳩の死骸が置かれていた。
すぐに騒ぎを聞きつけた先生が来て、生徒たちはそれぞれの教室へと散り、鳩の死骸は古びたタオルで包まれ、可燃ごみの袋へ落とされた。階段脇の壁から顔の横半分を覗かせながらそれを見ていた僕は、すぐにみどりのおじさんの仕業だと分かった。
学校の裏門を出ると文房具屋と駄菓子屋があって、その間の道を進むと高い木々に囲まれて鬱蒼としている蝮ケ池神社に出る。蝮ケ池神社の脇には、沼のように濁った体育館ほどの広さの池があって、その池のほとりに緑色の車が止めてあった。止めてあるというよりは乗り捨てられ、放置されているといった方が適切で、タイヤはパンクしていて、緑色もくすんで傷だらけで、埃まみれの窓ガラスやフロントガラスに貼られた新聞紙の隙間から見える中はゴミだらけで、そこにみどりのおじさんは住んでいた。
みどりのおじさんは少し変わった人だった。子どもたちの間では昔、沼に住んでいた蝮を食べたから何も喋らなくなったとか、白髪の髪を腰の近くまで伸ばしているから一年中薄着でも平気だとか、走るとめちゃめちゃ早いとか、いや、あれはおじさんじゃなくておばさんだとか、なかには、沼に落ちて死んでしまった娘がいて、ずっとその子のそばにいたいから、この場所を動かないんだってお母さんが言ってた、と言う子もいた。本当の事は何も分からないけど、みどりのおじさんはずっと前の上級生の世代からこの沼のほとりの、緑色の車に住んでいて、僕たちはおじさんを見つけると小石を投げてみたり、そっと車に近づいて中におじさんの気配を感じると車を蹴飛ばして、一目散に逃げたりしていた。
「みどりのおじさんってさ、何食べてるんだろうな」
と不意にコーイチが聞いてきたのは昨日の夕方の事だった。学校から帰って、僕たち四人は薄暗くて石油ストーブの匂いが充満している駄菓子屋に居た。
「そういえば、車の中に鍋とかあって、由美子が言ってたけど、時々車の外で何か作ってるみたいだよ」
とクジ付きのカードを物色しながらユータが答えた。
「沼の魚、釣るのかな」とケン。
「もうすぐクリスマスだし、チキンとか食べるのかな」
と僕が言うと
「まさか」
といつもの口癖でユータが返した。
土間売りの駄菓子屋の一段奥には座敷があって、暖簾の隙間から石油ストーブの赤い火が見えた。僕は、上がり框に座布団を敷いて座っているおばさんに
「みどりのおじさんって何食べてるの?」と聞いてみたけど、おばさんは眼鏡を鼻にずらして上目遣いで僕たちを見回し、知りません。と答えただけだった。傾いてきた夕陽が飴やガムを入れてある木枠の陳列ケースのガラスに弾かれて眩しく僕の目を射た。
「ちょっと見に行こうぜ、なんか食べてるかもよ」
コーイチの一声で僕たちは沼へ向かった。外の寒さを切るようにして四人で走り出した。木枯らしで駄菓子屋の入り口のガラスの引き戸が、ガタガタと揺れた。
蝮ケ池神社は閑散としていて、羽根の汚れた鳩が二、三羽地面をトコトコ突っついているだけだった。走ってきた勢いで、コーイチがその鳩に向けて砂利を蹴り上げたけど、鳩は面倒くさそうにパタパタっと低く飛んで、1メートルほど移動しただけで、すぐにまた地面を突っつきはじめた。神社の隣の沼の脇には緑色の車がいつもと同じように見えた。冬の夕陽が低く斜めに差して緑のボンネットにキラキラ反射していた。
「みどりのおじさんいるかな」
ケンが息を切らしながら言う。
「わかんないけどさ、寒いからさ、車の中で毛布に包まってるんじゃない」
とユータ。
「行くぞ」
コーイチが先を急かす。僕と目が合ったケンが「でも」と言いかけたが、僕は聞こえていない振りをしてコーイチと並んで先を走った。
車の周りは踏みしだかれた枯れ草が地面にへばり付いていて、所々に飲み口に割り箸が突っ込まれた空き缶が転がっていた。辺りにおじさんはいなかった。
「絶対に中だ」
車を覗き込みながら言ったコーイチが、不意にスッと2,3歩後ずさりした。
「どうした?いるの?」
息を飲んで僕が聞くと、コーイチは目を見開いたまま
「死んでるかも」
「まさか」
ユータが咄嗟に返す。フロントガラスに貼られた新聞紙の隙間から見える、長い白髪頭のおじさんはリクライニングさせた座席で毛布に包まっていて、僕たちに気付いていないのかピクリとも動かない。
「おい、レン、近くで見てみろよ」
そうコーイチに言われて、僕が恐る恐る中を見てみるとおじさんはゆっくりと目を開き、にやっと笑った。薄く黄ばんだ目が僕たちを見回した。
「おい!焦らせるなよ!」
そう言うなりコーイチが車を蹴飛ばした。鈍い音を立てた車はいつもより揺れて、コーイチが蹴飛ばしたところはボコッと凹んだ。ドアを開けておじさんが出ようとしたところを見計らってユータが枯枝を投げつけた。それはおじさんの頭に当たってカンと軽い音を立てた。
「レン!お前も!」
と興奮したコーイチが白い息を吐きながら叫ぶ。僕はどうして良いのか分からず、気付いたら
「おじさんはさぁ、クリスマスにチキンじゃなくて鳩の丸焼き食べるんだよな!」
と吐き捨てていた。ケンは既に泣いていて裸木の後ろに隠れていた。それから、僕たちは全力で逃げて、逃げる途中でバラバラになって、それぞれの家に帰った。みどりのおじさんは猛スピードで追いかけて来なかった。夜の迫ったいつもの道が怖かった。
鳩の死骸が下駄箱に置かれた数日後、みどりのおじさんは居なくなったと聞いた。ボロボロの緑の車もそのうち撤去されるという。コーイチもユータもケンも、そして僕もあの日のことは誰にも話していなかった。
入り口のガラス扉に年末年始のお休みの張り紙がされた駄菓子屋の壁に、出来の悪いクリスマスリースが飾ってある。おばさんはいつもの座布団に座って新聞をめくっている。奥の座敷からラジオの音がうっすらと聞こえる。
「ねえ、みどりのおじさん、なんで僕たちが5年生だって分かったんだろう」
ボソッとケンが聞いた。
「あの人は分かるんだよ。そう言う人なんだよ」
コーイチがぶっきらぼうにこたえる。
「まさか」とユータ。
「でも、鳩殺したんだよな、きっと。俺がチキンの代わりに食べてろなんて言ったから」
誰も何も答えない駄菓子屋に風がドアを打つ音だけがガタガタと響く。おばさんがゆっくり新聞を閉じる。僕は誰の目も見れなかったけれど、
「なあ、もうすぐクリスマスだし、いい事考えたんだ。明日、もう一回行ってみない?」
と声を絞るように言ってみた。
12月の乾いた光の中に、いつものように緑色の車はあった。みどりのおじさんが居ない車は、玄関先で飼い主を待つ犬のようにも見えた。臭くて、ところどころ毛が抜けて、目やにをいっぱい溜めた犬。
「やっぱり、いないな」
コーイチがつま先で軽く砂利を蹴りながら言う。
「捕まっちゃったんだろ、やばい奴だって、兄ちゃんが言ってたし」
とケン。
「風に飛ばされないように、石で押さえなきゃな」
そう言いながら僕たちはボンネットの脇に紙袋を置いた。四人はそれぞれ家からクリスマスの飾りを持ち寄っていた。それぞれの紙袋の中には金色のきらきらのモールや玉のオーナメント、金色の折り紙で作った星、赤色のクリスマスリースなどが入っている。
「クリスマスって、いつだっけ。明日?」
オーナメントをボンネットに飾りながらユータが聞く。
「今日が24日で、クリスマスイブだよ、クリスマスは明日」
僕は重そうな石でオーナメントを押さえながら答える。
「チキン食べるのは?いつ?」とケン。
僕とコーイチとユータはそれぞれ目を合わせたけど、無視して飾りつけを進めた。ケンが空を見上げて言った。
「夜、雪、降るといいな」
緑色の車のボンネットに金銀のモールや金の星を並べて、地面に落ちている枯れ葉を所々に散らした。サイドミラーやワイパーには赤や白の玉のオーナメントをぶら下げた。僕が最後に赤色のツリー型のリースをボンネットの真ん中に置いた。
「メリークリスマスだな。おじさん」
コーイチが言った。
「ねえ、みんなちょっと見てよ!」
ケンが車の中を指差す。新聞紙と布切れの間に写真立てが見える。僕はとっさにドアに手を掛けた。ドアは簡単に開いた。ぎゅっと口を結んで、写真立てを取り出してみた。
「写ってるのって、みどりのおじさんかな」
「そうだよ!若いけど、そうだよ!」
ケンが飛び跳ねるように答える。
「おじさんが抱っこしてるのは、おじさんの子ども? 娘さんかな」
とコーイチ。
「まさか」
とユータ。でもその女の子を抱いているおじさんはとても優しい笑顔だ。そのおじさんの隣には少し歳をとったように見える女の人が一緒に写っている。
「もうひとりの女の人、誰?」
僕が持った写真立てに四人で顔を寄せ合って、写真を見つめた。そして四人で目を合わせた。
「このおばさん、駄菓子屋のおばさんだ」
その日の夜は雪が降った。飾り付けられた緑色の車にもクリスマスの雪は静かに降った。すぐに正月が来て、3学期が始まった。休みが明けても駄菓子屋のシャッターは閉まったままだった。それからも、そして僕たちが卒業した後も、駄菓子屋のシャッターはずっと閉まったままだ。
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