兄弟のはなし(もんぜん)

 審判が「アレ!」と言った瞬間、音は消え、すべてがスローモーションに見えた。風に吹かれた竹のように敵の剣先がしなやかに揺れる。相手の右足がほんの少し前に出た。来る。蛇のように牙をむいて相手の剣が襲いかかってきたところを、僕は前に出て剣を避けながら自分の剣を突きだす。コントルアタックだ。ブザーが鳴り、僕にポイントが入ったことを皆が知った。

 フェンシングは僕の居場所だった。どんな大人よりも早く突くことができたし、相手の動きが手にとるようにわかった。僕は天才なんだと思う。毎日毎日練習した。やればやれほど上達した。
 もうフェンシングで頭が一杯で、いつもフェンシングの絵が書いてあるTシャツを着ていた。マイルスチェムリーワトソンのポスターを部屋に貼って、SNSのアカウントはコントルアタック山下にした。防具を身につけたままコンビニへ買い物に行ったこともあった。
 毎日笑って生きていた。みんな僕を褒めてくれた。

「兄ちゃん、フェンシングっておもしろい?」
 ある日、二つ下で中学一年生の弟が聞いてきた。僕はうまく剣が突けたときの気持ちよさや駆け引きの面白さを熱弁した。弟は「ふーん」と気のない返事をしたが、翌日練習を見にきた。
 そして世界は一変した。フェンシング経験のない弟に僕は負けたのだ。

「兄ちゃん、わざと勝たせてくれてありがとね」
 弟は練習後にそう言ってきた。わざとなんかじゃなかった。あんなに早い剣を見たことがなかった。僕の動きはすべて見切られていた。
「実はさ、フェンシングの防具ってよくカビが生えるんだよ。お前、キレイ好きだろ?」
「えー、カビ生えるの?」
「ほら、剣道の防具とかよくくせーって言うじゃん。それよりフェンシングの防具は通気性がないからさ」
「じゃあ、やめようかな……」
 でも翌日、弟は練習場に現れた。そして楽しそうに練習していた。

 コーチもマネージャのエリちゃんもすぐに弟の才能に気がついた。当然だ。入門して一週間でジムの誰よりも強くなったのだから。
「あいつは特別だ。くらべるな」
 コーチからそう言われた。納得いかなかった。僕だって天才なのに。何とかしてフェンシングをやめさせなきゃいけない。

 まず弟が愛用するファブリーズの中身を酢に変えた。フェンシングをやる人間にとってファブリーズはなくてはならないものだ。練習後に防具に振りかけないとすぐに汗臭くなる。ファブリーズの奪い合いで喧嘩になったこともある。
 そんなファブリーズが酢になっていたら……。あいつの防具は三日もたたずに臭くなるだろう。ふふふ。それとあいつの剣に乾燥したスルメを刺しておいた。グローブもファンタグレープで浸しておいた。ふふふ。

 弟の反応を楽しみに次の日ジムへ行くと弟の防具一式が袋ごと無くなっていた。弟の才能に嫉妬した誰かがやったらしい。僕は激怒した。嫉妬で嫌がらせをするなんて最低の行為じゃないか。僕は必死で弟の防具を探した。そしてどぶ川で弟の防具を見つけた。弟は泣いて喜んでくれた。

 それから3年が経った。弟は雑誌の表紙を飾るような選手になっていた。オリンピックも期待されていた。僕は全国高校選抜フェンシング大会で全国ベスト4になった。
 僕はひそかに決めていた。インターハイで弟に勝てなければフェンシングをやめる。僕と弟が同じ高校生でいられるのはこの一年だけだ。インターハイに人生を賭けるつもりだった。
 弟は調子にのっていた。練習もせず毎日いろいろな女の子と遊んでいた。そのなかにエリちゃんも含まれているのが許せなかった。
 起きている時間はすべて練習する時間にあてた。授業中も空気椅子で足腰を鍛えた。割り箸で蠅を突き落とす練習もした。練習後にはフェンシングの審判をやらせてもらい、動態視力を鍛えながら駆け引きを学んだ。

 インターハイが近づいてきた。順調にいけば都大会の決勝で弟と戦うだろう。来るべき日に備えて部屋でイメトレしていると、母が泣きそうな顔で部屋に入ってきた。
「い、い、いま、電話があって、た、たかふみが悪い人に連れて行かれたって」
 どうやら弟が不良の女に手を出して、どこかに連れ去られたらしい。
 僕は激怒した。弟は天才なんだぞ。何かあったらどうしてくれるんだ。
 僕はフェンシングの防具に身を包み、バイクに乗って弟を探した。そして廃工場で弟を見つけて「フランスの悪魔が来たぞ」と叫びながら不良たちに近づいた。不良たちは僕の姿にビビって逃げ出した。弟は泣きながら僕にお礼を言った。

 そして都大会の決勝。予定通り、僕は弟と戦った。努力のかいもあって、互角の勝負を繰り広げた。僕のフェイントに弟はすっかり翻弄されていた。
 残り時間はわずか、次のポイントを取ったほうが勝ち。
 ずっと夢見た弟への勝利が目の前にあった。僕は本物の天才に勝つぞ。
 でもそう思った瞬間、その日最速の突きが弟から繰り出された。きっと会場の誰も目に追えないぐらい速い突きだと思う。この剣先が見えるのは僕だけだろう。
 神様は残酷だ。どうして負けた瞬間がわかる程度の才能を僕に与えたのだろう。頭の中で崖が崩れる音がした。弟の剣の衝撃とともに僕の心は奈落の底に突き落とされた。

「兄ちゃんのおかげでフェンシングを続けることができた。すごく楽しい試合だった。ありがとう」
 試合後に弟からお礼を言われた。ありとあらゆる罵声が心に浮かんだけど何も声に出せなかった。ただ弟の肩を叩いてその場を去った。控え室でひとりになったあと、僕は世界を憎んで叫び続けた。

 それから毎年、僕は弟に勝負を挑んだ。まだ一回も勝てていないけど、メディアは僕をマネージャのように扱うけど、弟のサインを代わりに書くことはあるけど、こうなったら持久戦で勝負だ。弟がフェンシングをやめたとき、まだ僕が続けていたら僕の勝ち。絶対に負けないから。僕は天才だから。

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