知識ゼロからのしゃっくり入門(puzzzle)

 しゃっくりは医学用語では『吃逆(きつぎゃく)』と呼ばれ、動物の鳴き声や風や雨の音、川のせせらぎなど自然界に聞こえる音を模倣し、その時々の感情(想い)を表現しているという。
 肺の下に位置する横隔膜をけいれんさせることで、それに連動して声帯の筋肉が収縮し、狭くなった声帯へ急激に吐く息を通すことで「ヒック」と発音させることができる。かつて、ごく稀に幼少期の男児に限り、尻しゃっくりという奏法をみることがあった。悪い心を持った精霊に「かわいい子供だ」と魅入られて、黄泉国へ引っ張られてしまうとも言われ、尻しゃっくりに関する過去の記録は口頭伝承などに限られる。
 しゃっくりは横隔膜と声帯からなる人体に備わる楽器として考えられてきた。基本的に、合奏することのない、個人的な楽器である。恋愛に関する場面で、逢い引きの連絡に使われてきたという話も聞く。実際、まわりが静かであれば、かなり遠くまで音は響く。また、演奏する人それぞれで、音の個性が全く違うので、誰が演奏しているのか、ましてそれが自分の想っている人の演奏であれば、すぐに分かったであろう。
 尻しゃっくりが幼少期に限られるのは身体が生長するときに発生するくるい(反りや捻じれといった変形のこと)のためである。また、近年では食の欧米化に伴い、尻しゃっくりを経験するものは、ほとんどいないとされていた。
「それ屁だよね」
「尻しゃっくりなんだよ」
 まさか四〇を過ぎた自分がこんな経験をするとは思わなかった。あろうことか、俺たちは停電したエレベーターにかれこれ三〇分以上も閉じ込められている。
「なんとか止めることできないのかよ」
 医学的にも文化的にも貴重な経験をしているということを女はまるで分かっていない。それでも狭くなった肛門へ急激に吐き出されるそれは、屁の音色以外の何ものでもなかった。兎に角、記録すべきだとスマホを構えるが、そこに映るものは屁を連発している男と至極不機嫌な女。
「かつては逢い引きの連絡にも使われていたそうだ」
「助け呼びなよ」
 そして、いよいよ俺は不安になる。悪い心を持った精霊に「かわいい子供だ」と魅入らたなら、黄泉国へと引っ張られてしまう。
「おいおい泣きたいのはこっちだよ」
 見知らぬ女には悪いと思っている。でも、こっちはそれどころでないのだ。

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