「ボルペニ」 (ベランダ)

物心がついた時から幹子は躍動感が好きだった。力強くて、迅くて、刹那的な瞬間。それらの総体もしくはそれらの要素のバランスが自分の輪郭を一瞬で曖昧なものにし、何処まででも連れて行ってくれる。
人の腕をすり抜けいていくウナギ、アスリートたちがブンブン振り回している謎のトレーニングの綱、めちゃイケで数取団が出てくるときのカメラワーク。
生まれてから今日までたくさん出会ってきた輝かしい躍動感達のアーカイブ。幹子の脳は自然と整理整頓し、いつでも好きな時に、好きな躍動感を取り出せるようにしてくれている。毎晩寝るまでに、本好きの女の子が今日はどの本を読もうかなと自室の本棚を眺めるように、気分にあった躍動感を瞼の裏に投影する。今夜は小学生の時、プールの時間に目を洗う時の二股に分かれた水道の蛇口から勢いよく水が噴射し、自分の目に飛び込んでくる瞬間を選んだ。雨がみぞれにいつ変わってもおかしくない1月中旬の静かな夜だった。
幹子はもうじき卒業を控えた短大生だ。就職活動時期には、普通に生きていたら味わえないような躍動感につながる職種、テレビや映画の制作会社、スタントマン事務所などに手あたり次第エントリーシートを提出したが、どれも面接に至るまでにはいかなかった。そんな中、彼女に内定通知を出したのは上野にある小さな広告代理店だった。総合事務職なので彼女の求める躍動感には縁遠い仕事だが、昔テレビで観た、ごった返した年末の上野の商店街で「はい!おまけ!おまけ!」と、どんどん袋にお菓子やら生活雑貨をガンガン放り込んでいるおじさんの周りを有象無象の人々が阿鼻叫喚していたのを思い出し、そんな街で働くのもありかなと、さらりと内定承諾の通知を送った。そして卒業できるだけの単位はすでに取得済みなので、無為な生活を謳歌していた。
どれくらい無為なのか説明すると、毎日昼頃に起き、簡単な昼食を食べる。動画サイトでアルプス山脈の雪崩や釣りユーチューバーが釣った魚が船の上で激しく跳ね回るところを繰り返し見ていると、もう夕方。そこからは、同じように就職が決まり暇な友達と飲みに行き、「なんかウチの排水溝めっちゃ臭いんだけど」とか「彼氏のクンニがしょうもない」とか「雑誌のan anって黒柳徹子が命名したの知ってる?」とか誰彼かまわず不毛な会話を延々続けて、疲れたら終電で帰宅する。そんな生活を続けていた。

その日も同じように友達との飲み会を終えて、帰宅した幹子は、何気なくテレビをつけた。スポーツニュースで世界陸上の男子100メートル走のダイジェストが流れていた。走るために生まれてきたようなしなやか且つ力強い筋肉を具えた黒人選手たちが、飢えた虎のような瞳で自分が一番に到着すると信じてやまないゴールを見据えている。スタートの合図と共に選手たちが走り出した。初動から他の追随を許さぬ無慈悲な速度でレーン中心を走る大柄な男に、幹子はくぎ付けになった。その男はラスト10メートルほどになると手を高くつき上げ、勝利を確信。余力を残している走りでワールドレコードを塗り替えた。名前はウサイン・ボルトというみたいだ。記録が表示されたモニターの前でなにやら自身のお気に入りなのか、両手を伸ばして弓矢を射るようなポーズを取っている。
彼の走りに魅せられた幹子は、茫然自失となり、ニュースがお天気のコーナーに変わってもまだボルトが走っているのを見ているかのように画面を観続け、やがて今まで感じたことのない多幸感が彼女を包み込んだ。その晩、もちろん彼女は瞼の裏にうねる筋肉を躍動させ走る世界最速の男を何度も再生し、満たされに満たされて眠った。
その日以来、幹子はボルトの虜となった。ネットでボルトの動画を漁り、動画をスロー再生して彼の走る為の機能美、つまり筋肉が揺れる微細なところまでチェックして、恍惚の笑みを浮かべるのが日課となった。
他のスポーツとも比べてみた。ボクシングで右ストレートが急所に突き刺さりピストルで撃たれたようにリングに倒れ堕ちる瞬間。力士がぶつかり合いうねる腰回りの肉。NBA選手のダンクコンテスト。どれも素晴らしい躍動感の数々だったが、初めてボルトを観た時の濃密な記憶の膜は、幹子の脳裏に纏わりつきあらゆる物の侵入を拒んだ。
お気に入りのボルトの動画を収集し、それを編集して走っているシーンだけを取りまとめたオリジナルのベストダイジェストを作り、半紙に習字でボルトと書いて部屋に貼ってみたりもした。彼が走る際にしている細いネックレスと似たような物を購入し、近所の公園で全力疾走して彼目線からのネックレスの動きを少しでも実感しようと試みた。
 そんな奇行を繰り返すたびに、幹子のボルトへの偏愛性はどんどんと高まっていった。以前まで、彼女には躍動感達の中に優劣はなかった。隠し撮り風B級ホラー映画のカメラワークの人工的な躍動感も、ラジオ体操で揺れる肥満児の胸の肉のような人間が生み出す自然な躍動感も等しく愛していた。
しかし今では、もちろんボルトの影響で、人間が重力や他の事象へ何らかの形で働きかけたことから生じる、意図して人の心に入り込もうとするものではない副産物として生じた、生まれてきてしまったある種の必然性を伴う躍動感をより愛するようになっていた。
そういった思いを抱えつつ生活していたある日の夕方、スーパーの帰り道だっただろうか 。一つの天啓が彼女に降り注いだ。

「もし、ボルトが全裸で全力疾走したら、ちんちんの躍動感はとてつもないんじゃないの?」

気づいたころには幹子はもう走っていた。大量に買い込んだ食材のビニール袋が両膝にボンボン当たることなど気にもせず、なんで今まで気がつかなかったんだろうと思ったり、ボルトのペニスが残像でヤマタノオロチのように見えるほど激しく回転している妄想を抱きながら走った。アパートの鍵を原付の鍵やバイト先のロッカーの鍵と指し間違えながら、食材を袋のまま冷蔵庫に押し込み、パソコンの起動ボタンを押した。翻訳サイトを使って自分の気持ちをボルトに伝えるために。彼女は初めて使う翻訳サイトに悪戦苦闘しつつ、買ってきた夕飯も食べないで、一心不乱に思いを綴った。
長考の後、幹子の綴った文章は意外にもあっさりとした内容だった。実直、簡潔に想いと要望を伝える方が、なんだか真剣みが感じられるし、破天荒なところも見受けられるボルトの性格も考えると真っ向勝負で臨んだ方が、彼女の人生において重要なこの交渉が吉と出ると踏んだ末の文面だった。
『こんにちは!私は20歳の日本人です。ボルトさんのファンです。テレビを観てあなたの走りに魅了されました。それ以来あなたのことが、頭を離れなくなりある種恋愛感情のようなものを持つようになりました。毎日あなたのことを考えていたら一つの考えが浮かびました。もしあなたが全裸で、全力で走ったらあなたのペニスはどんな風に動き回るんだろうと。変なお願いなのは分かっています。でも気持ちが抑えきれません。日本に来て私の前で走ってくれませんか?いたずらなんかじゃないです。どうか信じてください。お返事待ってます。幹子』
ボルトのフェイスブックのダイレクトメッセージにこの「希望」を貼り付け送信した。静かに何かが一歩前進した気持ちと共に心臓の鼓動が少し早くなっているのを感じた。
「変だけど、間違っちゃいない」
幹子は呟き、ベッドに潜り込んだ。その夜、彼女は脳内の躍動感アーカイブを検索せず、冷めやらぬ興奮を抑えきれないまま浅い眠りについた。
午前11時45分、目が覚めたすぐに幹子は開きっぱなしにしていたパソコンの前に座り、受信トレイを確認した。一件の通知が来ていた。開いてみると、アルファベットが整然と並べられた文面が眼前に飛び込んできた。まさかのボルト本人からの返信だった。予想だにしない早さで帰ってきた返事に、彼女は窮したが、気持ちを何とか落ち着かせ翻訳サイトで文章を解読した。

『こんばんは!非常に興味深い考えだと思います。私自身考えたことがありません。あなたは興味深いです。非常に興味深いです。面白いです!日本観光も兼ねて来週行きます!非常に楽しみです。通訳と複数のスタッフも同行する。場所はこちらで用意する。会える日を楽しみにしている!』

世界最速の男が、超のつく世界的有名人が自分の考えを肯定し、実践してくれると言っている。言ってみるもんだ、なんて言葉じゃ片付けられないほどの出来事に幹子の胸は高鳴った。もうすぐ私の体験したことのない、いやその後も、上回るものなどないであろう極上の躍動感を目の当たりにすることができるのだ。幹子はその後、部屋の中、家の周りを無駄に歩き回りながら、喜びと、緊張と、不安を一旦払拭し、冷静になってお礼の返信メールの文言を考えようとするも、前回送ったような簡潔で実直な言葉たちは、もともと彼女の中には存在しなかったかのように脳みそが通常運転しない。結局、三日たってから「マジ、嬉しいっす、ビッグ感謝っす」的な言葉しか送ることしか出来なかった。

1週間後、幹子は指定された午前9時の一時間前から国立競技場の正面玄関の前に立っていた。本当に来てくれるのだろうか、そもそもあのダイレクトメッセージは本当にウサイン・ボルト本人からだったのだろうか。日本でいうところのアントキの猪木みたいに、ジャマイカのウサイン・ボルトのモノマネタレントからのものである可能性も十二分にある。
そんな不安を抱えながら彼女は2月中旬の寒空の下、けなげに待っていた。何度確認したかもうわからないボルトからのメッセージをスマホで眺めていると、大きな掌が彼女の視界に飛び込んできた。
 「コニチハ、コニチハ」
顔を上げると紛れもなく何度も動画で見た大柄なジャマイカ人、ウサイン・ボルトが幹子の前に突如現れ、握手を求めてきた。条件反射のように握手を返すとボルトはぶんぶんと握った手を振った。きゃきゃきゃと笑っている。
「はじめまして、仁平幹子さんでしょうか?」
スーツを着た小太りの男が話しかけてきた。
「そうです」
「本日、通訳で参りました国松です。よろしくお願い致します」
「よろしくお願いします」
後退した生え際をジェルで強引に撫でつけた、オールバックで小太りの国松という男も握手を求めてきた。
「それじゃ、さっそく取り掛かりましょう」
国松はそう言うと、後ろにいた4名の撮影クルーたちを正面玄関から中に入るよう手で示した。ボルトは「クレイジーガール!クレイジーガール!」とはしゃぎながら幹子をスマホで撮っている。
 誰もいない国立競技場は不自然なほど静かで広さが不気味だと思えるほど、幹子に心の余裕はなかった。憧れボルトに肩を組まれながら競技場に入る。ボルトは身を屈めて何度か緊張している幹子の顔を覗き込み「ダイジョブ?」と微笑んだ。
「ボルトさん、少し日本語勉強してきたんですよ」
と国松は言った。高級な香水であろう嗅いだこともない豊かな香りと、黒い肌に映えるピンクの歯茎がとても綺麗で、幹子は夢心地でボルトに抱かれていた。
 競技場に入るとボルトは幹子の手の甲にキスをして、ロッカールームに入っていった。撮影クルーたちはすでに大きなカメラを3台ほど設置してカメラの調整の為か、なにやら大きな声で指示を飛ばしあっている。
「ボルトさん、今回の試みに非常に興味を持たれてるみたいで」
幹子の背後から国松が喋りかけてきた。
「なんかもう、私、本当に変なお願いしちゃって。まさか実現するとは」
「私も初めて聞いた時は驚きました」
国松は笑った。
「なんか、すいません」
初めて幹子は国松をしっかり見た。ボルトの隣にいるから小さく見えるのかと思ったら、実際本当に小柄で身長は160センチほどだった。
「興味深い映像が撮れそうですね。なんせ世界中の人間を一列に並べて走らせたら、前には誰もいない男ですよ。あなたの仰っておられた、その躍動感。私も大変興味があります」
 国松の言葉で幹子は、はっとした。そうだ、私の本来の願いはボルトのちんちんの躍動感なんだ。私が求めているのはボルトじゃない、そりゃもちろん、ちんちんもボルトの一部なんだけど、私はそのちんちんが人類の世界最高速度でどんな躍動を魅せるのか、それが見たかったんじゃないの?憧れのボルトを目の前にして緊張なんかしてる場合じゃない。
 ロッカールームから出てきたボルトがウォームアップを始めた。ストレッチ、軽いランニング、立ち止まってはストレッチ。入念なアップは30分ほど続き、ボルトは私たちに向けて「もう大丈夫」のサムズアップをみせた。撮影クルーたちの準備も整ったようだ。
 幹子と国松は撮影クルーのところへ行き、モニターの前に座った。モニターにはカメラで撮影したボルトのちんちんをズームした映像が流れる仕組みだ。待ち焦がれていた瞬間。毎晩、瞼の裏に投影していた妄想が現実となりゆく光景を眺める幹子のボルテージはどんどん上がっていった。自分が冷静である為のストッパーがガシャンと外れる音が骨身に振動する感覚はあったものの、そんなものは今の幹子に認知できるはずもなかった。
スタートラインに立ったボルトが服を脱ぎ始めた。ジャージの上着から、Tシャツ、ズボンを脱いでボクサーパンツのみとなったボルトに幹子は大きな声を上げた。
「剥くんじゃねーぞ!」 
国松が目を真ん丸にして幹子を見つめる。
「どうされました?」
「だから、ポコチンの皮、カッコつけて剥くんじゃねーぞって言ってんだよ!自然なポコチンがみてーんだよ!バカタレ!」
「急にどうされたんですか?!」
「うるせぇ!お前早く伝えてこい!さみーからどうせポコチン縮こまって、金玉三つあるみてーになってんだろ!そのままで走れって言ってんだよ!ぜってぇ剝くんじゃねーぞ!」
国松は先ほどまで大人しかった少女の変貌ぶりに驚きを隠せないまま、ボルトに駆け寄っていった。そして戻ってきた。
「どうしてもですか?だそうです。」
国松は申し訳なさそうに幹子にすり寄ってきた。
「たりめーだろ!こっちは自然のポコチンが躍動するとこ観てーんだよ!剝いちゃったらリアリティ無くなるだろ!」
ボルトは決定的なPKを外したサッカー選手の様に腰に手をあて、もう少しで泣きそうな神妙な顔をしていた。
「おい!国松!もう一回聞いてこい!」
走る国松。ボルトは懸命に説得する国松と目も合わさずに神妙な顔で首を小さく横に振る。靴ひもを結びなおして時間稼ぎをしている。
「どやねん!?国松!」
幹子の問いかけに、遠くの国松は腕で大きな×サインを出した。
「しょうもないのう!クソダボが!」
激怒した幹子は撮影クルーの肩を殴った。戻ってきた国松は何度も長距離をダッシュしたのでぜえぜえ言っていた。
「もうええ!あのタコスケはもう知らん!国松、お前がフルチンで走れ」
国松は一瞬、驚いた顔を見せたが冷静になって質問した。
「でもこれって、ボルトさんじゃないと、意味ないんじゃないですか?」
「うるさい!この際もうええんじゃ!このクソ寒い中いつまで待たなあかんねん!」
「わかりました。私はズルムケなんで大丈夫です」
「気色のわりい報告してくんな!はよ走れ!」
スタート地点まで走った国松はいそいそとスーツを脱ぎ始めた。そしてパンツを脱ぎクラウチングスタートの姿勢をとった。国松はなんだか清々しい顔しているように見えた。
「はい、すたーと」
力なく幹子が合図を出すと国松が走り始めた。
カメラは国松の股間に焦点を当て、その映像がモニターに映った。
「勃っとるやないか!もうええわ!」


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