PAINPAIN(もんぜん)

 リングに横たわると俺は空っぽになった。もう戦えない。全身がそう訴えていた。

 プロレスラーを引退して一年が経った。ある日、ふとスマホを見ると、見覚えのないアプリがあることに気がついた。

 PAINPAIN

 有名なキャッシュレス決済アプリPayPayにそっくりなアイコン。なんだろうと思い、軽い気持ちでそれをタップする。

「このアプリは痛み決済アプリです」

 赤いビックリマークと一緒にそんなメッセージが表示された。詳細な説明を読むと、お金の代わりに痛みで支払いができると書いてある。そんなバカなことがあるものか。俺は鼻で笑ってアプリを閉じようとしたが、その瞬間、腹が鳴った。ずっとまともなご飯を食べていない。引退して他の仕事を探したが、どれも長続きしなかった。ダメ元でこのアプリを試してみても損はないのかもしれない。


 コンビニのレジに焼肉弁当を持っていき、俺はアプリを起動して「PAINPAINで」と告げた。高校生ぐらいの若い店員が目を細めてアプリの画面を見る。小柄で可愛らしい女の子だ。まつ毛が小刻みに上下して、困っているように見える。やはりこんなアプリ使えるわけがないじゃないか。大きな後悔の波が襲ってきた。

 しかし意外なことに、その店員はパッと笑顔になって「PAINPAIN決済ですね。かしこまりました」と言った。そしてPAINPAINの画面をバーコードを読み取るとレシートを渡してきた。本当に買えたのか? 半信半疑のまま弁当を持ってレジから立ち去ろうとした。すると店員に呼び止められた。

「お待ちください。お支払いをお願いします」

 振り返ると店員が金属バットを持っていた。そして笑顔のまま、バットを振り下ろしてきた。目の前が真っ暗になり衝撃が走る。数秒経って痛みに全身を支配される。懐かしい感覚だった。血が目の辺りまで垂れてきて、手でぬぐうと生温い。

 俺は倒れなかった。見ていた他の客が拍手してくれる。

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」

 店員は最後まで笑顔を崩さなかった。どういう仕組みなのか全くわからないが、痛みで買い物ができてしまった。

 翌日からトレーニングを始めた。なにはともあれ、このアプリは俺にぴったりだ。俺は痛みに耐えるプロだからだ。
 その後、何回か使ってわかったのは、金額に応じて痛みが強くなることだった。

 五百円の焼肉弁当を買うと、金属バットで殴られる。
 千円のAmazonギフトカードを買うと、中指の爪を剥がされて、そこにマニュキアを塗られる。
 五千円のトレーニングウェアを買うと、馬と両足をロープで結びつけられて、町中を引きずられる。
 一万円のトレーニング器具を買うと、包丁で太ももを刺される。

 どれも激痛であったが耐えてみせた。不思議なことに痛みに耐えているあいだは必ず観客がいた。通りすがりの人だと思うが、みんな当たり前のように俺を見ていた。痛み決済というのは一般的なものなのだろか。

 ある日、別れた女房が訪ねてきた。元女房はカフェを経営していたが、騙されて借金を背負いお店を手放さなくてはいけなくなったらしい。金額は二千万円。
 元女房は下積み時代から俺を支えてくれた。それに甘えて、俺は彼女を何度も裏切った。その頃の生活を振り返えると彼女が泣いていたことしか思い出せない。今こそ罪を償うときなのかもしれない。

 自分は元女房がお金を借りた消費者金融に行って二千万円を返すことにした。もちろんPAINPAINを使って。

 廃墟のようなビルに足を踏み入れてタバコの匂いが染み付いた階段を上がっていくとドアが見えた。何の看板も出ていない。元女房がこんなところでお金を借りていたかと思うと、悔しくて涙が出てくる。

 ドアを開けて怖そうな角刈りの男たちの囲まれながら前へ進むと、ストライプのスーツを着た細身の男が机に座っていた。爪をやすりで擦っている。こいつがボスだと直感した。元女房の借金をPAINPAINで肩代わりしたいと告げると、ボスが右眉をあげて俺を見た。

「あなた、死にますよ」
「リングのうえで死ねるなら本望だよ」

 ボスが不思議そうな顔をする。2000万かけて痛みに耐えるなんて、タイトルマッチみたいだと思った。ここはリングだ。たとえマットやロープがなくてもそう思うことにする。俺のタイトルマッチは今から始まる。

「じゃあ、始めましょうか」

 ボスがそう言うと、角刈りの男たちが角材を振り下ろしてきた。俺はそれをすべて頭で受け止める。続いて、椅子に縛り付けられて、口にガラス瓶を突っ込まれたまま殴られた。口の中でガラスが割れて血だらけになる。

 痛み決済は三日三晩続いた。ありとあらゆる拷問を受けた。吹矢を尻に吹かれたあたりから、次第に意識が遠ざかる。死を覚悟した。

「どうしてそこまでするんですか?」
 
 ボスが俺に聞いた。

「誰かのために戦えるのは幸せだと気がついたんだよ」

 俺はそう答えた。いつしか角刈りの男たちの中から俺を応援する声が上がるようになった。ずっと殴られている俺に同情したのだろうか。その声は次第に大きくなっていく。

 なんだ。やっぱりここはリングだったんじゃないか。

 最終的にはリングに立っていたときよりも大きな声援をもらった。ボスも「頑張れ」と言いながら俺を殴った。ああ。声援はやっぱりいいものだな。もし生きて帰れるようなことがあれば、もう一度リングに立とう。そう思いながら、意識を完全に失った。

 ふっと目が覚めると、俺はリングの上に寝ていた。レフリーがカウントを数えている。慌てて俺は立ち上がった。声援とブーイングが大きなうねりとなって俺を襲ってくる。

 1年前の試合だ。これが夢なのか、これまでが夢なのかよくわからなかった。しかしふと客席を見ると、両手を胸の前で組んで祈るように試合を見ている元女房に気がついた。それだけでよかった。俺は客席に向かって咆哮した。まだ戦える。また戦える。

 試合後にスマホを見ると、PAINPAINというソフトはどこにも入っていなかった。

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