幕間(紀野珍)

「よし、キリがいいところでいったんブレイク。続きは、そうね、十五時半からにしましょう」
 副編集長の号令で、オンラインミーティングは中休みに入った。
 椅子に背を預けて両手を上げ、大きく伸びをする。眼鏡を外し、目頭を強く揉みほぐす。眼鏡を掛け直してPCのモニタに目を戻すと、六分割されたウインドウの右上に子どもの姿があった。
 五歳くらいの男の子が、六分の一の画面の中できょとんとした顔を傾げている。さっきまでデザイナーの家入さんがいた画面に映っているということは、たぶん彼女の子なのだろう。家入さんが既婚者でお母さんなのは聞いている。
 休憩に入ったはずが、家入さん以外の五人はみな画面内に残っていた。俺と同様、珍客の出現に席を外すタイミングを逃したものと思われる。
 編集者の田ノ下さんが笑顔で手を振る。
 まだ不思議そうにモニタを見つめていた男の子だったが、それが自分に向けられたものと察すると、表情を変えずに手を振り返す。
 つぎに副編の豊田さんが手を振り、残り三人もあとに続いた。俺も胸の前で小さく手を振る。
 画面の中の大人たちとコミュニケーションが図れていることを理解したのだろう、風船がぽんと割れるみたいに男の子が破顔した。手を振るのに合わせて揺れるマッシュルームヘアと、切り揃えられた前髪の下でくしゃっと潰れた目がかわいらしい。
「こんにちはー」
 両手を振りながら呼び掛けたのはチーフデザイナーの天野さんだ。男の子の返事はない。
「コウくーん、聞こえるー?」
 もう一度呼び掛けるが、やはり反応はなし。どうやら家入さんは、音声は入出力ともミュートにしたが、ビデオは切り忘れて離席したようだ。
「コウくんっていうんだ」と豊田さん。
「そう。コウキくん。かんわいいよね」と天野さん。
「家入さんにそっくり。目もとなんかとくに」と田ノ下さん。
 そんなやり取りをよそに、コウくんからいちばん遠い下段左の画面で、俺と同じ外部ライターの海老名さんがうつむいてなにやらごそごそやっている。顔を起こす。
「ぶっ」「んふふふっ」「わはははははは」
 海老名さんは、寄り目をし、上唇を持ち上げて歯茎をむき出しにするという、相当に古典的な変顔を作っていた。古典的だから大人には効いた。俺も吹き出してしまった。
 コウくんも笑っていた。片手で口を覆い、肩を上下させている。その芝居がかった仕草がみょうに板に付いていて愛らしく、いい子なんだろうなあ、と思う。
 海老名さんのスタンドプレーを機に、大人五人の変顔アピールタイムが始まった。
 ブタ鼻を作る、白眼をむく、頬を両手で挟んで圧迫するなど、めいめいが(おそらくは)テッパンの変顔を披露する。俺は、小学生の時分に編み出して何人もの友人に牛乳を噴かせた必殺の変顔「寝起きのゴリラ」で参戦した。
 誰が操作したのか、いつの間にかコウくんが上段中央の画面に移動していた。コウくんは大笑していた。声こそ聞こえないが、けたけた笑っていた。
 ひとしきり笑ったあと、コウくんは両頬を膨らませ、目を見開いてカメラに顔を寄せた。おっと、攻守交代か。なんの合図もなしに、五人の大人がいっせいにその顔を真似る。コウくんはたやすく笑い崩れ、別の変顔を作る。俺らが真似る。コウくんが笑う。
 何度かその応酬をくり返したあと、海老名さんが突然画面からいなくなった。十秒ほどしてカメラの前に戻った彼は、冗談みたいにボリューミーなアフロヘアのカツラを被っていた。画面の七割方がちりちりの黒い毛で埋まる。
「なんでそんなの持ってんの」「馬鹿だなー」「どこにしまってるんだそれ」
 仕事仲間には冷ややかにあしらわれたが、これもコウくんにはうけた。口をぽかんと開けたままモニタを見つめる顔には、はっきりと羨望の色があった。
 悪乗りした大人たちの、つぎの勝負が始まった。全員が画面の外へ出て、何かを仕込んで戻ってくる。
 リアルな馬のゴムマスクを装着した者がいる。束にした髪の毛を両方の鼻の穴に突っ込んだ者がいる。まぶたに目玉を描いた者がいる。パンストを被った者がいる。セロテープで顔をぐるぐる巻きにした者がいる。俺だ。
 ひとり画面に登場するたび、コウくんはのけぞって笑い、手を叩いて笑った。
 笑い転げる男の子と、それを取り囲むまともでない大人たち。セロテープの隙間から六つの画面を眺めつつ「なんだこれ」とつぶやくと、それに反応したかのようにコウくんが背筋を伸ばし、笑顔のまま横を向く。
 コウくんの画面に家入さんが現れた。PCの時計を見ると、十五時半まであと三分。
 家入さんはモニタを覗き込み、驚いたような呆れたような表情を一瞬見せる。すぐに目を逸らし、コウくんとふたことみこと言葉を交わしたあと、コウくんの背中をぽんぽん叩きながらふたりで画面の外へ消えた。
 十五時半を五分ほど回ったころ、家入さんが戻ってきた。コウくんといっしょに。
 家入さんはカメラの前に着席し、コウくんを抱え上げて膝の上に座らせた。そして、おそるおそるという感じで視線を上げ、大きく口を開けて笑いだす。
 我々がさっきとなんら変わらない状態で待ち受けていたのだから当然だろう。
 コウくんが手を振る。こちらも振り返す。
 息子を両腕で抱えたまま、家入さんは笑い続ける。コウくんは上機嫌で何か喋っているが、音声はまだ切れている。笑いながら息子の話に相槌を打っていた家入さんが、不意に笑い止む。あらためて息子を抱き寄せてその首もとに顔を埋め、やがて小刻みに肩を震わせ始めた。

文芸ヌーは無料で読めるよ!でもお賽銭感覚でサポートしてくださると、地下ではたらくヌーたちが恩返しにあなたのしあわせを50秒間祈るよ。