王より飛車を(紀野珍)

「双子らしいな」と言い、重雄が歩兵を進める。
「あ? ——ああ、雅也んとこか。だそうだ」と秀造が応じ、銀将を前へ出す。
「いよいよひいおじいちゃんか」
「いよいよひいおじいちゃんだ」
「どっちも女の子だってな」
「おいおい耳が早ぇな。俺だっておとつい聞いたばっかだぞ」
 午後二時。秀造宅の居間でふたりの老人が将棋盤を挟んで向かい合い、窓から射し込む晩春のかそけき陽光を浴びていた。
「予定はいつ」
「五月の末つってたかな」
「へっへっへ。楽しみだろ、ひいじいちゃんよ」
「そりゃあな」
「へっへっへ。いっぺんにふたりだしな」
「ほんと、ありがてえ話だ。曾孫を両手に抱くまでは死ねねえわ」
 重雄が別の歩を進める。ぱちんと小気味いい音が響く。つかの間盤を睨んだのち、秀造も歩を動かす。
「病院行ってんのか、雅也んとこの嫁さん」
「検診か。ちゃんと行っとると。医者に相談したらいろいろ便宜してくれて、裏口から入れてもらったりしとるんだと」
「ほう。黒澤さんとこか」
「黒澤さんとこ」
「あっこの先生はやっぱしっかりしとるわ。まだこのあたりじゃ感染者出てねえけど、実際どうだか分かんねえしな」
「そうよ。用心してしすぎることはねえ」
 ぱちん。重雄が桂馬を進める。
「あんたも用心せにゃいかんで。感染したら双子も抱かせてもらえねえぞ」
「この状況じゃ罹ってなくても難しいだろ。俺らのことはどうでもいいんだ。無事に産まれてくれて、母子ともに健康ならそれでいい」
 言い終えて、秀造は角行を盤の中央へ動かす。
「真面目な話、いつまで続くんかね」
「収束するまでさ」
「いつ収束すんだろな」
「そら分からん」
「もううんざりだわ。一生分マスク着けた」
 溜息を吐いて、重雄が盤に手を伸ばす。飛車をニマスだけ横へ動かす。
「俺ら老いぼれはなんでもねえ。仕事もねえんだしこうやって家にこもってられる。なにしろ若えのが気の毒だ」
「まあなあ。——そうそう。聞いたか。天来軒、今月いっぱいで店畳むんだと」
「ほんとかよ。天来軒がか。へえええ」
 秀造は相手の歩を取り上げ、そのマスへ自軍の角を運ぶ。
「驚くよな。あんなに流行ってた店がさ」
「そういや久しく行ってねえなあ。なんだ、補助金かなんかはもらわんかったのか」
「もらったと。持続化給付金。もらったんだけど、それで客が戻ってくるわけじゃねえしな。もともとあとニ、三年でやめようと思ってたとか言ってるらしいが」
「そうかあ。しかしよ、あっこがダメなんじゃ、あっこらへんの飲食店は全滅なんじゃねえか」
「ファミレスも潰れたしな。そうかも分からん」
 重雄、銀を進めて相手の角の鼻先に付ける。
「店閉めてどうすんだ。天来軒の、まだリタイアするような歳じゃねえだろ」
 秀造、角をつまんで銀の真横に置く。成って竜馬。「王手」
「や、もうリタイア考えていい歳なんだ。金沢に越して、息子夫婦の手伝いするかみたいな話をしとるらしいけど」
「金沢……ああ、上の倅んとこか。いつだかみんなして行ったな、秋の旅行んとき。ハンバーグステーキ専門店だっけか。小洒落た店だった」
 腕を組んで盤に目を落としていた重雄、手駒から歩を拾い、角と王将の間に付ける。その歩の四マス先に自軍の歩がいるが気付いていない。秀造も気付かない。ゆえに対局は続行される。
 重雄がぺしっと膝を叩き、口を開く。
「思い出した。あの旅行んときだったな、二日目の朝、ホテルのロビーで集合したら、昇さんと八郎さんの格好が——」
「上下とも色から形からそっくり同じで。わははははは。あったあった。北陸旅行んときだったかあれ」
「それこそ天来軒の倅の店に行った日だぜ」
「そうだそうだ。みんな悪ふざけして、ふたりだけ別のテーブルに座らせたんだ。で、昇さんが注文したあと、八郎さんが——」
「同じのをお願いします」
「わははははははは」
「わははははははは」
「ありゃあ笑った。腸がよじれるほど笑った。奥さん同士がいっしょにユニクロ行って同じの買って、それを旦那ふたりがたまたまあの日に着たんだよな」
「そう。偶然。ジジイふたりが上下ペアルックで歩いてな。兼六園を。奥さんら恥ずかしがってんのに連中はおもしろがって、途中から肩組んでた」
「すれ違う人がみんな振り返ってな。どう思われてたんだろうな、あれは」
「俺らはどんどん離れてって。いやあ、あれのおかげであの日は一日中笑ってた気がするわ」
 秀造は両のまなじりに浮かんだ涙を指先で拭い、竜を横へ動かして銀を取る。
「みんなが元気なうちに、またどっか行きたいねえ」
「行けるだろ。だいぶガタはきとるようだけど、みんなまだ歩くくらいはできる」
 重雄が角を大きく動かす。歩を仕留めて、王手飛車取り。だが「王手」と言わない彼は自分の王手に気付いていない。当然秀造も気付かず、躊躇なく飛車を逃がす。
「茶でも淹れてくるかな。要るか?」
「いただこうかな」
「茶でいいか? コーヒーもあるが」
「お茶でいい」
 秀造は座卓に手を突いて立ち上がり、台所へ向かう。
 重雄は胡座をかいたまま上体を前へ傾け、盤を見下ろす。少し考え、桂馬を動かす。続けて相手の歩をつまみ、ひとつ進める。その歩の後ろにさきほどの桂馬を運んで成桂。相手の銀を下げて守りを固める。自軍の飛車を中央へ寄せる。そこへ盆を持った秀造が戻ってくる。秀造はテーブルに盆を置き、座布団の上に腰を据えたのち、盆から自分の湯呑みだけを取り上げる。盆には黒糖かりんとうの袋も載っている。
「どうぞ。粗茶でございますが」
「へっへっへ」
 茶を啜り、秀造は桂馬で成桂を取る。重雄も湯呑みに口を付け、歩を上げる。
 しばらく無言の攻防が続く。
 ぱちん。重雄が何手目かで角を動かすと秀造が長考に入り、五分ほどして「詰んでるわ、これ」と言った。
「詰んだ? ほんとかよ」
「ほれ、おめえがつぎここに金を打ったら終いだ」
「ええと……ああ、詰むな。うん。ここかここになんか付けたらどうだ」
「歩しかねえんだわ。どっちも付けたら二歩になっちまう」
「そうかそうか。じゃあ間違いなく詰みだ」
「詰んだ。こっちもあと一歩だったんだがな。攻めきれんかった」
「おつかれさん。——おいおい、もうこんな時間かよ。あんたとの将棋は長くなっていかん」
「時の経つのを忘れるくらい集中して頭使うのも悪かないだろ、たまには。もう一局やるか?」
「冗談。帰る帰る。買い物頼まれてんだよ」
「いけねえ。俺も郵便局に行く用があるんだった。支度してくるから、ちょっと待っててくれ」
 そう言って立ち上がった重雄の足もとに音もなく転がり落ちたのは金将の駒。もちろん、ふたりはそのことに気付かない。

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