三々五々兵衛捕物控(インターネットウミウシ)

三々五々兵衛捕物控 『流れ者』 幌呂垣邸造
初出『文芸旬春』猿母々社 昭和十六年四月号


 文政四年。江戸は本所の昼下がりのことです。
 岡っ引きの三々五々兵衛(さんさんごごべえ)は着物も脱いでいるのか着てるのかあやふやな体で縁側で寝転んでおりました。
 春の陽が当たる中、外にも出ずによだれを垂らして横になる。三々五々兵衛はこの時間を最も愛おしく思っていました。
 十手でわきの下の裏の、ちょうど手が届きにくいところを掻いておりましたところ、ドタドタとした足音と共に駆け込んでくる者がおります。
「こいつぁどえらいこった!」
 最愛の時間を邪魔され、心底嫌そうな顔になりました。
 やってきたのは子分の珍吉(ちんきち)です。
 情は厚いが喧嘩っ早くてそそっかしい珍吉は「ヨタ珍」と呼ばれています。
「親分、どえらいこってす!」
 縁側にだらんと寝転ぶ三々五々兵衛は珍吉に背を向けて不機嫌そうに言います。
「うっせえうっせえうっせえわ。」
「三回も言わなくたっていいじゃないですか。四諸町の金貸の主人、腹江九郎兵衛が何者かに殺されたんです。」
「いやだよぉ。こんなうららかな日に殺しの話なんか聞きたかないよ。それにヨタ珍、どうして殺されたってわかるんだい。」
「背中に刺し傷があったんです。手前の背中を手前で刺すなんざ至難の業です。きっと何者かに後ろから刺されたんでしょう。家の人たちも待ってます。さァ行きましょう。」
 珍吉は三々五々兵衛を強引に起こし草鞋を履かせます。
「アァ、そうだ親分。外に出る時はこいつを付けてください。」
 珍吉は懐から鼻口を覆うための福面を取り出しました。
 昨年からの流行り病のせいで、往来を出歩く時は口と鼻を覆う福面をしないといけないのです。
 どうにか流行りを食い止めるために江戸中の医者が知恵を絞り、一年がかりで陽か陰かわかる上に予防もできる散薬を作りました。
 しかし元々外に出るのが億劫な三々五々兵衛は、自分にはあまり関わりのない話だと薬も飲まずに今日まで過ごしておりました。
「親分もいい加減、薬を飲んでくださいよ。誰が陽になってもおかしくない世の中なのですよ。」
「気が向いたら飲むよ。」
「じゃあこの殺しをあっしが解いたら飲むって約束してくださいよ。」
 そう言って珍吉は外に飛び出しました。

 春の河原は暖かくてのどかです。
 日がなのんべんだらりと生きている三々五々兵衛も少しは明るい心持ちになりました。
 先を歩く珍吉がべらべらと殺しについて話しています。
「家の者は殺しの現場を見ていないって言うんです。あの辺りは船着場もあって人の往来も多い、だから流れ者が押し入ったんじゃないかなんて言ってる者もいるんです。」
 三々五々兵衛は道端に穴あき銭が落ちているのを見つけました。
 おっ、こいつぁ幸先がいいとしゃがんで手を伸ばしてみると、しじみの貝殻でした。
 舌打ちをして立ちあがろうとしたところで、荷商いの唐茄子屋の籠が三々五々兵衛の背中にバシンと当たりました。
 土手を勢いよく転がり落ちてそのまま川へと飛び込み、流れて行きます。
「でも俺ァ身近な者の仕業じゃないかと思うんです。だっておかしいじゃありませんか。玄関も勝手口も外からは開かないんですよ。」
 呑気な調子で一人喋る珍吉は、すぐ横の川をぷかりと浮かんで流れて行く三々五々兵衛に気づきません。
 一通り喋り終えた珍吉が後ろを振り返った時、初めて三々五々兵衛がいないことに気づきました。
「あれェ、親分?親分?」
 珍吉が何度も呼んでいる親分は、もはや珍吉をとうに追い抜き、四諸町の船着場の桟橋に頭をぶつけておりました。

 親分に逃げられたと思った珍吉は不機嫌になりながら腹江の屋敷に向かいました。
 すると屋敷の前には、ずぶ濡れの三々五々兵衛が風呂上がりの手ぬぐいよろしく、鎖鎌を首から下げ、鎌の部分を振り回しています。
「親分!どこに行ってたんです!なんでしっとりしてるんです!」
 三々五々兵衛は面倒くさそうに言います。
「なんかもう、答えたくないんだ。」
 なんとなく落ち込んでいる様子を察した珍吉は、それ以上訊けませんでした。
 三々五々兵衛はポツリと言います。
「珍吉、こいつは殺しだよ。」
「何かわかったんですか?」
「先ほどちょっと色々あって腹江の屋敷のすぐ裏にある船着場にいたんだ。そしたらそこの船頭が昨晩天蓋で顔を隠した妙な虚無僧を見たというんだ。」
「顔を隠した虚無僧、そいつァ怪しいですね。」
「船頭が言うには、虚無僧は腹江の屋敷の勝手口から飛び出してそのまま早足で逃げてったというんだ。その時に落としていったのがこいつさ。」
 三々五々兵衛は鎖鎌を振り回しながら言います。
「じゃあそいつが得物なんですか?」
「いや、こいつには血が付いていなかった。きっと得物は別にある。念を入れていろんな得物を用意してたんだろう。下手人は用心深い人物にちがいないよ。」
 そう言いながら三々五々兵衛と珍吉は屋敷の門をくぐりました。

 屋敷の中では、番頭や手代の連中が騒いでおります。
 岡っ引きが来てくれたのはうれしい、しかしいくら岡っ引きとはいえ、水浸しの男が屋敷の中に入ってくることには家中の者が難を示していました。
 なぜ水浸しなのか。なぜ鎖鎌を振り回しているのか、丁稚の小僧たちがコソコソと噂をしておりましたところ、三々五々兵衛が入ってきたので蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。
「誰か、店の者はおらぬか。」
 三々五々兵衛が入ろうとすると、振り回していた鎖鎌が鴨居に刺さり、つんのめったところ首に巻いていた鎖鎌の鎖がギュッと締まりました。
「ケエエエエッ!」
 雉のような叫び声をあげ真っ青になる三々五々兵衛を見て、隠れていた小僧たちが怖くなって泣き出します。
 珍吉が慌てて鴨居に刺さった鎖鎌の鎌の部分を引っこ抜きました。
 三々五々兵衛はゼエゼエと息をしながら玄関口で寝転んでいます。
「なんか一瞬、違う世界が見えた。」
 そうポツリとこぼす三々五々兵衛の目はうつろです。
「さっきも見えたんだ。川に流されている時も。見たことのない景色だった。みんな変な服で、変な福面をしていたんだ。」
 珍吉は、なんて哀れな人なんだろう、と思いながらもうんうんと頷きながら三々五々兵衛の背中をさすります。
 もはや腹江の家の者は、主人の殺しの話ができなくなっていました。
 とりあえず三々五々兵衛を中に入れ、布団に寝かせました。

 三々五々兵衛は夜中に目を覚ましました。
 隣で寝ている珍吉はもう二度と三々五々兵衛に鎖鎌を持たせたくないのか、鎖鎌を握りしめて眠っています。
 そんな健気さにふっと笑みを浮かべ、三々五々兵衛は珍吉の頭を撫でました。
 厠で用を足した三々五々兵衛は、二階へ登り、物干場から屋敷の外を流れる川を眺めました。
 月明かりに照らされキラキラと輝く水面を見て、もう二度と川には近づくまい、と心に決めました。
 すると真下にある蔵の方から物音が聞こえます。
 三々五々兵衛が蔵の方に目を凝らすと、何者かが蔵に入って行くのが見えました。
 古びた欄干に重心をかけて蔵に入った人物の姿を確かめようとしましたが、欄干の柱が突然折れて瓦屋根の上をごろんごろんと転がり、そのまま川へ落ちました。
 ぷかりと浮かんだ三々五々兵衛は川下へ流れていきます。
 二階の物音に気付いて飛び出した珍吉は、蔵の物音に気づきました。
 珍吉が蔵の戸を開けると、番頭が血の付いた匕首(あいくち)を持ち出そうとしています。
 動転した番頭は叫び声をあげ、珍吉に向かってきます。
 このままじゃ殺される!と身構えた珍吉の手元には鎖鎌がありました。
 寝ている時に握っていたものをそのまま持ち出していたのです。
 珍吉は三々五々兵衛が振り回していたように鎖鎌を振り回しました。
 すると暗闇で鎌が見えなかった番頭の頭に鎌の柄が思い切り当たり、すぐに気を失いました。
 翌日、番頭は腹江の殺しを自ら打ち明け、番所へと連れて行かれました。
 珍吉の読み通り、番頭が虚無僧に化け、主人である腹江を殺し、流れ者の仕業に見せかけていたのです。
 しかし得物の匕首を隠す暇がなく、仕方なく蔵に隠していたのでした。
 腹江殺しが無事に落ち着きましたが、肝心の三々五々兵衛は見つかりません。
 珍吉は殺しの謎を解いたら飲んでもらうと約束した流行病の散薬を持って、一人とぼとぼとと三々五々兵衛の家へと向かいました。
 今親分はどこにいるのだろうか。無事なのだろうか。心配は尽きません。
 三々五々兵衛の家に入ると、珍吉はハッとしました。
 縁側にはずぶ濡れで寝転ぶ男の後ろ姿があったのでした。

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