出所したのち(紀野珍)

 刑期満了で出所したのち、身寄りのないTは地元Y県の更生保護施設に入居し、仕事探しを始めた。元来が生真面目なTは社会復帰にも前向きに取り組み、ほどなく寮付きの部品製造工場に就職が決まる。Tは熱心に働いた。すぐに職場に溶けこみ、彼の過去を知る雇用主に一目置かれるようになり、友人と呼べる仲間もできた。働き始めて半年後、工場近くのコンビニで顔馴染みになっていた女性店員にTは軽口を叩く。相手が気さくに応じたことで、Tは彼女を強く意識するようになる。以降、店内で顔を合わせてはふたことみこと言葉を交わし、ふたりは少しずつ距離を縮めていく。他愛ないやり取りのなかで彼女が独り身であるのを知ったTは、意を決し、勤務後に食事へ行く約束を取りつける。何度か食事デートを重ね、たがいに休みの日には昼から街へ出かけるようにもなったふたりは、自然な流れとして肉体のつながりもでき、大人の男女の付き合いをするようになる。

「中年の恋。甘酸っぱくてほろ苦さもあって、いいねえ。このままハッピーエンドを迎えてくれよ」
「や、問題はここからの分岐なわけでして」
「滑り出しは順調なのになあ。——前科持ちってのは女に明かしてるんだっけ?」
「最初の食事のとき。恋人ができるルートだとそれは確定です。Tの性分のようで。ただ、そのパラメーターはほぼほぼ影響がなさそうなんですよね」

 彼女との結婚を考えるまでになったTは、手始めに寮を出てアパートを借り、同棲を始める。パートナーができたことで日常に潤いが生まれ、Tはいっそう仕事に打ちこんだ。ギャンブルを含めとくに趣味らしい趣味を持たず、金の使い途を知らぬ男だったので、稼ぎの大半は蓄えになる。彼女もまたつましい性質で、ふたりは身の丈に合った十分にゆとりのある暮らしができた。Tにとって初めてといえる満ち足りた生活が三年ほど続いたある日の夕刻、ふたりで商店街を歩いていて人の連れた犬にじゃれつかれ、犬を飼おうと彼女が提案する。

「ここだな」
「ええ。うちらの担当パートでまだ踏んでなかった、ペットの分岐イベントです。未婚の状態で、この時間にこの商店街にいると発生します」
「籍入れてちゃダメか」
「結婚は鬼門でして。どのタイミングで実行しても急行でゲームオーバー一直線。それもほとんど同じ進路で。この男がそもそも結婚に向いてないとしか思えない。だから結婚関連の分岐は全部潰してあります」
「ペットでなく人間の子どもが加わるパターンは? 年齢的に養子くらいしかないだろうが」
「その分岐は別のチームがやってますが、全滅っぽいですね。入籍とセットになる率が高いらしくて」
「そうか。——Tが動物好きなんていうデータあったか?」
「ないです。幼少のころまで遡っても。だからまあ、望み薄ですがいちおうやってみるという感じです」
「めぼしい分岐で最後に残ったのが、よりにもよってこれか。——ひさしぶりに出ちまいそうだな、救えないやつが」
「では、彼女に同意する、を選択させます」

 ふたりが住んでいるのはペット可のアパートだったので、さっそく譲渡会に参加し、雌の柴犬、推定六歳を迎える。子のないふたりきりの生活に、新たな同居者はぴたりとはまった。彼女はもちろん、Tも実の子のように犬をかわいがり、甲斐甲斐しく世話をした。一心に信頼を寄せるか弱い生物の存在はTにささやかな幸福と自信を与えた。平穏に過ぎゆく日々。犬を飼い始めて約三ヶ月後、Tは彼女に結婚を申し出、ふたりは正式に夫婦となった。

「おや、結婚しちゃったよ」
「なるほど、こうくるか。Tから迷いが消えて、分岐なしの強制イベントになってしまった。これはもう詰みです。あっという間にどん底まで滑り落ちますよ」

 結婚でふたりと一頭の生活に大きな変化はなかったが、妻の老いた両親が密に関わってくるようになる。これがTには負担となった。Tの過去を、義父母は娘ほど軽くは受け止められなかった。かわいい我が娘を案じる気持ちが畏怖混じりの冷たい視線や言葉となり、Tを責める。世間体が悪いと面と向かって言われもした。そのつど妻は両親と喧嘩をし、Tが妻をなだめる。気にしていないふうを装っていたが、義父母と接するたびTの心は消耗し、それは酒量の増加となって表れた。晩酌で飲みすぎ、宿酔の頭痛を抱えて出勤するうちはまだよく、仕事でミスを連発し、班長にこっぴどく叱責されてからは歯止めなく転落した。いっそう酒量が増える。職場で悪評が立ち、Tはやがて仕事に行かなくなる。日中から自宅で飲み、酩酊しては妻に手を上げる。それがほぼ毎日となったころ、夫が泥酔して寝ている隙に、妻は飼い犬を連れて親元へ逃げる。昼も夜もなく酒浸りのTは酔いと怒りにまかせて義父母の家に押しかける。娘をかくまい説教を始めた義父に逆上したTは、明確に危害を加えるつもりで力一杯突き飛ばす。駆け寄る義母の腹を蹴り上げる。キッチンへ行き包丁を探し当てたTはそれを握りしめ、顔色をなくした老夫婦のもとへ戻る。そして——。

「ほら、こうなってしまう。何百回見たやら、この結末」
「ペットの提案を拒否するルートがまだあるんじゃないか?」
「やってみますがね、それだと何も起こらないのと同じなので、おそらくノーマルな破局ルートに収斂されるだけだと思いますよ」
「むかしのお友だちに偶然再会して、よくないお仕事に誘われて、ってやつか」
「ええ。ちょっとあり得ないくらい発生率が高いそのイベントをなんとか回避できないかと、こうして総動員でローラーをかけてるわけです。我がチームはそろそろ万策尽きかけていますが」
「…………」
「どうしました」
「いや、いまのペットのルートもそうだが、当人がいくら意志を強く持っていても、外側から急所を突かれるともろいもんだな、と思ってな」
「浮くも沈むも他人次第ですよ、人生トータルで見ると。やっぱり。Tはだいぶ悪い流れにはまってしまいましたね。さて、やり直しはペットの分岐からでいいですか?」
「いや、最初からやろう。そこまでに何か見つかるかもしれん」

 ——そのとき、広大なオフィスの一角で歓声があがり、遅れて低いブザー音が鳴り響いた。ふたりは顔を見合わせる。年若のほうがすぐにモニタに視線を戻し、マウスを操作してウインドウを開く。

「ついにクリアルートが見つかった。十三班だそうです。どれどれ……ワオ。なんだこれ。こんなのアリかよ」
「どんなルートだ。どんな離れ業をやってのけた」
「驚きですよ。出所してすぐ、組織に戻らせたそうです」
「はあ? N組にか」
「ええ。以前いたところに戻したら落ち着いた。組はまあ組なんで悪さばっかりしますが、実際に動くのは下っ端で、Tは少なくとも直接は手を汚すことなく死ぬまで生きる。組に復帰すれば、恋人を作ろうが子どもができようが、おおむね似たルートになるそうです。なるほどなあ。更生を目指すのだけがクリアに至る道だと思いこんでた。勉強になった」
「なんと……。ということはだ、二十年だか三十年だか後に釈放して犯罪組織に帰すために収監することになるわけだ」
「ですね。そういうルールですから。釈放後のシミュレーションで、殺人罪に類する重大犯罪を二度と犯さないルートが一本でも確認できた場合は——」
「極刑は回避」
「腑に落ちないのは分かりますよ。でも、死刑にならないだけでこれから刑務所で罰は受けるわけですし、それに、釈放後の処理はきっと楽です。出たらすぐ組に戻るよう誘導するだけで済む」
「それはそうだろうが……。まあ、何はともあれ一件落着か。どうせここから先は俺らの領分じゃない」
「そういうこと。さ、もう遅いですし、とっとと引き上げましょう。おさきに失礼しまーす」
「ああ。長時間ご苦労だった」

 先刻までふたりが目を凝らしていたモニタの中では、出所したばかりのTが道端に佇み、コマンドの入力を待っている。電源を落とそうかと年配のほうは考えるが、けっきょくそのままにし、オフィスをあとにした。

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