ジュブナイル(タカタカコッタ)

「龍ちゃん、龍ちゃん」

 呼ぶ声に振り向いて、龍は目を凝らしてみる。顔かたちはぼんやりしていてはっきりわからないけど懐かしく、すえたような鼻にかかる声。玄関の前で手を振っている人影。龍は急ぐ。赤い空がその人影だけを黒く浮かび上がらせる。


 夢で見る故郷は、いつも夕焼けだ。40歳も半ばを過ぎて龍はそう思うことが増えた。電車のアナウンスにぼんやりと目を覚ますと、海岸線を走る電車からは屋根の低い建物の奥に細かく光る海が、巨大な青い幕のように見えた。午前の日差しがつくり出した車内の濃い影の中にいて、その光は小鳥のくちばしのようにちくちくと眩しく映る。娘のリノは薄っすら汗をかいて龍に寄りかかるようにガクっと頭を落として寝ていて、息子のサクは帽子のツバを窓に押し当ててしがみつくように景色を眺めている。ふたりの子を連れて、龍はA県からフェリーで20分程の所にあるH島へ向かっていた。窓から目を逸らすと龍は子どもの間で、また目を瞑った。


 終点で電車を降りて5分ほど歩くと、申し訳なさそうに一本だけある貧弱な葉をつけたヤシの木が出迎えてくれる白塗りのフェリー乗り場に出た。定刻通りに出航した遊覧船に乗ってH島まで向かう。初めて船に乗った子どもたちはすぐに甲板に上がって柵から身を乗り出すように海を眺めている。よく似た横顔に風を受け、ふたりとも目を細めながら、あちらを指差し、こちらを指差して楽しそうにしている。

「パパ!あの島に行くんだよねー!」

 リノが威張ったような船のエンジン音に負けじと大声で聞いてくる。龍はうん、と頷いて甲板の長椅子に腰を下した。6月の海は潮の匂いがまだ薄かった。遊覧船の後ろには二筋の白いあぶくのラインが船の速度に比例するように沸き立って、小さな泡の粒々がそのあぶくから勢いよく跳ね上がっていた。


 H島は観光雑誌の写真でみるよりも貧しかった。小さな船着き場に降り、桟橋を渡ると、名産のたこを売る土産物店、日に焼けた海鮮丼のポスターを貼った定食屋、その隣にはレンタサイクル店とたこ焼き屋が並んでいた。道路脇のいたるところにたこの絵が描かれた幟が垂れ、時折小さい風に揺れていた。水の止まった噴水は青色のペンキがところどころ薄く白く剥げ落ちていた。小さな湾の入り口から30メートルほど行けばすぐに山の傾斜がはじまっていて、餃子のツバのような貧しい平地に商店と観光案内所が並び、その奥の山の麓に民家が並んでいた。民家のすぐ裏手はもう山だった。山には数件の旅館やホテルが張り付くように建っていたが、外目から営業しているところと、そうでないところとがはっきり区別できた。


 船着き場を囲む小さな湾のすぐ西側が海水浴場になっていて、子どもたちはそれをみつけると一目散に駆けだした。海では小さな菱波が日光を細かく弾いていて、それは夏の接近を思わせた。サクが早速スニーカーと靴下を脱いで海に足を浸けるとリノも真似をして尻を砂に付けて両手で靴を持ち上げるようにして脱いだ。ふたりが脱いだ靴下を丸め込んだスニーカーを両手に持って、龍は砂浜の奥のコンクリート敷きになっているステップに座った。

「入っていいのは足だけだぞー。ちゃぷちゃぷするだけな!」

 龍がそう叫ぶと、子どもふたりが声をそろえてハーイ! と大声で返した。


 煙草を吸いながら、波打際にしゃがみ込んでいるふたりの子を眺めていると、生ぬるい初夏の潮風と太陽の光に混ざって、龍の頭に子どもの頃の記憶が煤けた標本のようにぼんやりと浮かんできた。夏祭りを待つ昼間の静まった町の風景。薄暗い土間から見えた明るい庭と洗濯物、いちじくの木。飛行機から聞こえる宣伝の間の抜けた声とプロペラの音。龍を呼ぶ声……。遠い記憶と目の前の風景が波の音に攪拌されるようにもやっと浮き上がり、混ざり合って、龍は自分の体から自分が抜けていくような感覚を覚えた。龍はぎゅっと目を閉じた。「龍ちゃん、龍ちゃん」と呼ぶ声が耳の奥で鳴る。ばあちゃん? ゆっくり目を開けてみる。沖の方にぼんやり見える陽炎のような人影は何だろう? 龍は目を細めて凝らしてみる。するとまた、懐かしいすえたような声が耳の奥で鳴る。龍ちゃん……。

「お父さん、貝殻。見てほら。きれいでしょ」

 ふと、サクが目の前で小指の先ほどの小さな貝殻を乗せた手を広げて立っていた。

「病院に持って行ってお母さんにあげるんだから、お父さん持ってて」

「持っててって言ったってしまっておくところがないよ」

「水筒に入れておけばいいじゃん」

「水筒はだめだよ。みんな、お茶飲めなくなっちゃうでしょ。父さん、ポケットにいれとくよ」

 龍は、鞄からティッシュペーパーを取り出すと小さな貝殻を包んでポケットにしまった。

「おーい!あの子大丈夫か?」

 声の方を振り向くと、片足で自転車を支えて止まっている地元の年配者が顎で海を指していた。リノが腰まで海に浸かっていた。

「リノ!」

 龍が海へ駆けだすと、サクも足を絡ませながら駆けてくる。海に腰までつかっているリノは犬のような目をして龍を見ている。龍は靴を脱ぐのも忘れ海へ入ると脇を抱えてリノを抱き上げた。思ったよりも海水は冷たかった。海の中には膨れ上がった茶色い海藻がぬめって浮いていた。サクは波打際で突っ立っていた。

「リノ、危ないでしょ!なにしてたんだ!」

 龍は思わず声を荒げた。

「だって、保育園のキンダブックに書いてあったんだもん。海でおしっこしても大丈夫だもん!」

 左右の目の涙を堪えながらリノが言う。ズボンはびしょ濡れだった。リノの手を引き摺るようにしてベタベタと砂浜をあがってくると、さっきの年配者が自転車をひいて寄ってきた。

「お嬢ちゃん、おしっこしとったんか。海ン中ですると気持ちええだろ。どっちにしてもベタベタに濡れとるわな。お父ちゃんよー、子どもはちゃんと見とらンと危ないで、気ぃ付けとらンといかんぞ。そンで、替えのズボン持っとるンか?」

 年配者は両目の脇に日焼けした深い皺を刻んでいる。

「すいません。替えは、無いです」

「よし、待っとれ、持ってきてやるから、な、お嬢ちゃん」

 そう言い残すと、灰色の開襟シャツを膨らませながら自転車で細い路地へと入って行った。


 リノは腰ひもできつく縛った赤いぶかぶかのハーフパンツを履いている。「ズボンはこれ履け、なぁ。あと、子ども用のパンツが無かったから、ばあさんの持ってきたわ」と年配者は言ったが、パンツは断ってハーフパンツだけを譲ってもらった。「短いズボンは要らンやつだから、やるわな。要らンかったら捨てていいで」とも言われた。

 海水浴場のトイレでハーフパンツだけを履かせ、その後、すぐ側の海浜亭に入って三人で海鮮丼を食べた。サクもリノも残さずに食べた。生け簀のある魚臭い店だった。何かの記念品の角の丸い鏡が古い柱時計の下に掛けてあった。店の窓から港の入り口にある小さな灯台がよく見え、沖には筆箱のように見える船が何隻か行き来していた。

 海浜亭を出て、しばらく海岸沿いの国道脇を三人で歩いたが誰ともすれ違わなかったし、龍の靴も乾かなかった。魚の絵が描いてある看板を見つける度に子どもが「何の魚?」と聞くが、分からない絵が多かった。子どもたちはふたりで急に走り出してピタッと止まって、振り返って龍に手を振って、また走り出した。それを繰り返すのが面白いようだった。防潮堤に乱雑に重ねて置かれているテトラポットの隙間に空のカップ麺の容器と煙草の吸殻が投げ捨ててあった。


 帰りのフェリーの甲板で海に向かって「おしっこもらしたー」と大声でサクが叫んだ。からかわれたリノは泣きながら「だってキンダブックに書いてあっただもん!」と何度も甲高い声を張り上げた。乗り合わせた乗客がふたりを見てくすっと笑う。それを見たリノが、乾いた涙の筋のついた頬を膨らまして龍の足に抱き着いてくる。龍はリノの頭を撫でてやった。サクの頭も撫でてやった。龍はどうしようもなくやるせなくて泣いていた時、ばあちゃんに頭を撫でてもらうと胸に張った蜘蛛の巣がすーっと溶けていく感覚を思い出していた。撫でてもらいながら大声で泣いていると気持ちがすっきりして、それで、泣きながら全く他ごとを考えながらも、ただただ大声で泣き続けていた。


 海の上には赤い空と去来する夕方の雲が見えた。何気なくポケットに手を入れると、ティッシュに包まった貝殻に指があたった。

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