猫のはなし(もんぜん)

 ずっと猫になめられていた。

 呼びかけても無視するし、なでようとすると怒るし、一緒に寝ようとしても引っかかれるし、何度ダメだと言ってもノートパソコンのうえで寝るし、大事な本のうえにゲロを吐くし、振り回されっぱなし。

 もともとは元カノが飼っていた猫だった。同棲することになって、うちに連れてこられた。正直、猫にまったく興味なかった。ただ彼女に好かれたい一心で猫が好きなフリをした。
 猫も嫉妬するみたいで最初から敵意むき出しだった。彼女と抱き合うと脛を引っかかれた。キスをすると飛びかかってきた。
 それなのに元カノはこの家を出ていくとき、なぜか猫を置いていった。

 猫には名前があった。シマウマ。茶色をベースに黒い縞模様が入ったキジトラの猫、だからシマウマ。名付け親は元カノ。
 俺は絶対にその名前を呼ばないようにした。なめられていることへのせめてもの仕返しだった。代わりに猫と呼んだ。

 それから10年が経った。
 俺は一人暮らしを続けていて、猫も相変わらずなついていなかった。
 俺は孤独感を感じるのがイヤで仕事に没頭していた。家には寝るためだけに帰った。

 あるとき仕事がうまくいかなくて、やりきりない日があった。ふらふらと歩いて帰った。夜空を見上げたら泣きそうになった。もう何もかも捨てて逃げたかった。
 立ち飲み屋で一杯やって、夜3時すぎに家についた。玄関をあけると、猫がちょこんと座っていた。当然と言わんばかりの「いつもこうして待っていますよ」の顔をしていた。そして俺の顔を見ると小さな声でにゃあと鳴いた。
 俺は猫を抱きかかえて、もふもふしているところに顔をうずめた。猫は温かった。

 翌日、猫はいつもどおりのつれない感じに戻っていた。なでようとしたらパンクシンガーみたいな「シャア」を言われた。


 
 さらに2年が経って、ある日突然、猫がいなくなった。あいつがいない部屋は広く感じられた。猫がいなくなったぐらいで、そんなふうに感じるとは思わなかった。
 俺は三日三晩探して、それでも見つからずペット探偵を呼んだ。獣の匂いがするおじさんがやってきた。巨大なリュックを背負い腰回りにポシェットをつけたタンクトップ姿のおじさんだった。
「3日間で10万円になります。見つからなくてもお金をもらいますが大丈夫ですか?」
 思ったより高かったけど仕方ないと思った。自分も社会人だ。それぐらいのお金をもらわないと生活できないのは理解できる。お金を前金で支払うと、俺の声を録音したいと言われた。俺はレコーダーに
「猫!猫!」
と何度も言った。俺の声であいつが出てくる気はしなかった。それと猫の写真を何枚も渡した。

 翌日、拡大された猫の写真が近所にたくさん貼られた。指名手配されたようだった。おじさんは猫のたまり場に行っては写真を撮ってきた。あいつに似た猫はたくさんいたが、あいつはいなかった。俺は意味もなくキャットフード用の皿を洗ったりした。

 結局、あいつは見つからなかった。おじさんは全力を尽くしてくれた。3日間で100匹以上の猫の写真を撮ってきた。そこまでやって見つからなかったから俺はあきらめることにした。いなかった頃に戻るだけだし、もともと猫に興味なんかなかったし。そう自分を納得させながら寝た。
 翌朝、布団のなかから「ニャア」と声がした。布団をめくると猫がいた。「ここにいるのが当たり前だろ」の顔をしていた。
 俺はやめたタバコを家中探しまわって1本見つけた。それを換気扇の下で吸った。やっと涙が止まった。あいつに一番いい餌をあげようと思った。


 猫は年をとった。体は全体的に白っぽくなった。クローゼットやテレビのうえにジャンプしなくなった。餌も残すようになった。そして俺の目の前で全身を痙攣させて倒れた。
「シマウマ、がんばれ。シマウマ」
 俺は声をかけながら動物病院まで自転車を立ち漕ぎした。どうやってたどりついたか、正直よく覚えていなかった。無我夢中だった。
 お医者さんが言うには、年をとって飲み込んだ毛玉が消化しにくくなり胃にたまったらしい。明日手術するという。成功率は30パーセント程度。
 パニックだった。病院のまわりを意味なくうろうろした。インスタグラムのアカウントを作って、猫の写真をアップロードしては消したりした。近くの神社にお祈りにもいった。シャドーボクシングした。自分の頬を何度も叩いた。ほとんど眠れなかった。

 次の日、朝一で病院に行くと、笑顔でお医者さんが出迎えてくれた。手術はしないと言う。どうやら胃にたまっていた毛玉は一晩たったら消えたらしい。火事場のクソ力のようなパワーを発揮して消化したのではないか、というのがお医者さんの見解だった。
「こんな猫、見たことありません」
 まるで自分のことのように誇らしげに言うお医者さんを見て、俺は声を出して笑った。

 看護師さんがキャリーケースに入ったシマウマを連れてきてくれた。シマウマは恥ずかしそうな顔をして出てきた。送別会の翌日に転勤が取り消しになった人のような顔だった。その姿を見て、また笑った。

 ちなみに今でもなでようとするとシマウマは全力で怒る。でも、ひざの上には乗ってくれるようになった。これからもどうかよろしく頼む。よろしく頼むよ。

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