ムニエルに濁点(puzzzle )
愛息の小遣いって、俺が餓鬼の頃より少ないんじゃないか。うまい棒は細くなった。マーブルフーセンガムは6粒20円だ。それなのにあいつはペットボトルのほうじ茶なんて買ってくる。餓鬼が茶なんて買うのか。茶なんて未だ無料でもらいたい。
「正義の味方おかわりマン参上」
皿洗いしていれば不意に現れる愛息。蹴りでも食らわされるのかと身構える。小遣い上げろよ。食器洗剤に両手を塞がれた俺は絶体絶命だ。おかわりマンはコーヒーサーバーで冷めきったものをマグカップに注ぎ、冷蔵庫から調整豆乳を取り出した。攻撃を仕掛けてくる様子はない。そもそも俺は正義の敵ではない。
「ガムシロないの?」
「ごめん。最近、外出してないから」
出先の要件を終えると、喫茶店で残務処理をする。ミルク入りの無糖コーヒーが好きだからコーヒーフレッシュは使う。持ち帰ったガムシロップは冷蔵庫に放り込んでいた。何故のコーヒーフレッシュ。小さなハテナはスマホを叩けば直ぐに回答が得られる。こんな時代だから皿を洗い終えた頃にハテナは消えている。
「ガムシロ」に続いてよろしくのスタンプを妻に送った。
それでいいのか。油で揚げたスカスカとかさ。甘いだけのベトベトとかさ。餓鬼は買い食いするものだろう。かつては婆さんの駄菓子屋が実在した。スクラッチくじとかもあってさ、二〇〇円分のお菓子がもらえる777を当てて大喜びしたよ。
「これは111だ。五〇円だね」
婆さんは老眼鏡をずらして言い張る。
「777だろ。前に出てるヤツ長いじゃないか」
俺は譲らなかったけどね。しばらくして駄菓子屋が潰れたと知った時、ちょっぴり心が傷んだ。スニーカーが三センチも大きくなれば、駄菓子屋へ運ぶ足も重くなる。
「婆さん死んだのかな」
デシクボが呟いて、俺はその尻を蹴った。
おかわりマンは派手なヘルメットと真っ黒なマントでソイラテを掻き回す。懸命に砂糖を溶かす隣に腰を下ろし、俺はスマホを構えた。
「勝手に撮るなよ」
「その派手なメットと地味なマントは何なんだよ」
氷河の融解からはじまるバイオグラフィは理解ができなかったが、愛息の考えたオリジナルキャラクターらしい。
「おかわりする時だけ変身するのか?」
「そうだよ」
勝手に撮って妻に送った。「おかわりマンじゃん」と返ってきた。なんだそれ。有名なのか。そんなはずはない。妻にも同じ恰好をして見せのだろう。これから帰りますの動くスタンプが送られてきた。ムーミンパパのやつ。「デシクボって覚えてる?」ハテナを浮かべたスナフキン。「地元の友達」「短距離のバンドマン?」妻は誰と間違えているのだろう。久しぶりに思い出したことを伝えようと思っただけ。デシクボ。会ったことなかったっけ。
愛息はもうパジャマだ。
「ただいま」
玄関でガムシロを三つ受け取ってえらく喜んでいる。妻は少し得意げだ。一杯のアイスコーヒーに「ガムシロ三つください」と言える強さが欲しい。笑顔の二人に取り残された気分になる。腹の肉を強く摘まんだ。
「今日の夕飯は?」
頭が空転して言葉が出ない。代わりに愛息が答えた。
「豚汁と鮭」
「わお、サイコーじゃん。豚汁おかわりした?」
「うん」
おかわりした時パジャマだったけどな。焼いた鮭って朝飯っぽくないか。余計な思考が回って、豚汁とサーモン。片栗粉まぶしてフライパンで焼いておけばムニエル。豚汁とムニエルだったら胸を張れたか。
デシクボは料理をしているだろうか。
妻がシャワーを浴びている間に豚汁を火にかける。あいつはエッセンシャルだから夕飯は主に俺が作る。あいつはエッシェンシャルなのに俺より給料が安い。あいつはエッセンシャルだけど俺より早く起きて朝飯を作る。往復三時間の通勤もエッセンシャル。俺は時間を持て余し、大したものでなくとも夕飯くらい作らなければ自分が保てない。豚汁が泡を立てて吹きこぼれる。慌てて火を止めた。
デシクボの顔が思い出せないのだ。
「婆さん死んだのかな」
デシクボが呟いて、俺はその尻を蹴った。そればかりフラッシュバックする。畳に放り投げられた派手なヘルメットと真っ黒なマント。拾い上げたそいつを身に着ければ、不意に身体が軽くなった。
「おかわりマンじゃん」
風呂上がりの妻がタオルで髪を拭っていた。
「デシクボって覚えてる?」
「ベースcho.でしょう」
そうだったっけ?何故かあの時に蹴り上げたデシクボの後ろ姿しか思い出せない。妻がゆっくりと首を上げながら俺を見上げる。畳からつま先が離れ、なんだか俺、飛んでるよ。
「わお、サイコーじゃん」
風呂上がりの妻がタオルで髪を拭っている。俺は泣きそうな笑顔で、その濡れた髪を見下ろしながら「ムニエル」と漏らした。
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