ロープ(紀野珍)

 自宅アパートからほど近い古道具屋の店先でとぐろを巻いていたロープが目に留まった瞬間、「首を吊るのによさそうだな」とそんなつもりもないのに思い、そのロープを取り上げてレジまで運んだ。灰白色のロープは毛羽立ちも目立たず状態は良好で、針金でくくり付けられた値札には〈約10メートル〉と記してあった。
 帰宅してすぐ、ネットでロープの結び方を調べた。目当てのものはすぐに見付かった。〈絞首刑結び〉あるいは〈ハングマンズノット〉と名付けられたそれは、なるほど、見覚えのある形状をしていた。
 いくつかのサイトを参考に、結び方を練習した。思っていたよりずっと簡単だった。結んでほぐしをくり返し、三度目で満足のいくものが完成した。輪っかを首に掛け、結び目を掴んだままロープを引くと輪が締まる。上出来だ。
 これを吊すところは、と室内を見渡す。高い位置に渡してあって成人男性の体重を支えられるほど丈夫な横木などここにはない。やろうと思えばドアノブでもできるのは知っているが、そんな方法ではこのロープをこしらえた甲斐がない。そして、俺はべつに死にたいわけでもなかった。
 トートバッグにロープを突っ込み、急ぎシャワーを浴びて着替え、バッグの底にロープがあるのをたしかめたのち、家を出る。
 視線がいつもより上向きになっているのを意識しながら商店街を歩く。電柱、街灯、マンションのベランダ、街路樹。目を皿にしてあちこち眺め回すが、自分たちが日常生活を送る世界に首を吊れる場所はそうそうないことが分かる。
 十分ほど歩いて公園に着く。ほかのものには目もくれず、ある遊具へと近付く。
 ブランコ。ロープで首をくくるのにこれほど適した〈装置〉がほかにあるだろうか。
 ふたつの座板をぶら下げる黄色い支柱。高さはおよそ二メートル。そこへロープを投げ上げる自分を想像する。支柱にロープが掛かる。輪っかを引き上げ、遊具を取り囲む柵にもう一端を固く結わえる。座板に立ち、両手を伸ばして輪を持つ。首を通す。顎にロープを掛けて両手を下ろす。人生最後の深呼吸をし、座板を蹴る。
 ——がしゃん。
 ぴんとロープを張らせて絶命した自分の姿が見えた直後、金属のきしむ音がして我に返る。
 男児がふたり、けたけたと笑いながらブランコを漕ぎ始めていた。
 うたた寝から醒めたばかりの心地で周囲を見回す。
 滑り台に、シーソーに、砂場に、子供がいる。その保護者とおぼしき女たちが日陰に固まって談笑している。老爺がひとりベンチに腰掛け、西日に顔をしかめている。スーツの男がスマホを手に目の前を通りすぎる。
 子供の喚声が、固い地面の上を駆け回る音が、近くを走る自動車の走行音が、ひっきりなしに耳に飛び込んでくる。
 それらの雑多な音のなかに、奇妙な〈声〉を拾う。
 ブランコに視線を戻し、ぎょっとする。いつの間に現れたのか、斜め前方、一メートルほどの距離に男がいた。Tシャツにチノパン、ショルダーバッグの一見フリーター風。顔がはっきり見えないこともあり、年の頃は分からない。男は鉄柵のすぐ手前に立ち、ブランコのほうを向いてなにやらもぐもぐと呟いている。口許の動きが、さっきから聞こえる読経のような〈声〉とシンクロしている。
 足音をたてないよう動き、背後から男に接近する。耳を澄ます。
「……題はロープをどう固定するかなんだけどさいわい長さに余裕があるから後ろの柵に結び付けるのがよさそうだ、ぶら下がったとき地面に足が付かないよう輪っかはなるべく高い位置まで引き上げることぎりぎりまで上げてもブランコの椅子を踏み台にすればたぶん届くブランコの椅子に立つのは不安定だけどロープが吊革代わりになるから大丈夫、輪っかを首に掛けたら両手を背中に回して前でも後ろでもかまわないからブランコの椅子を目いっぱい撥ね飛ばすこと戻ってきたブランコを無意識に足が捕まえて一命を取り留めるなんて間抜けな事態は避けたいけどいったん吊り下がってしまえばそんなことにはならないはず、実行するのは深夜人が寝静まったあとたとえ終電が終わったあとでもここは人通りがありそうだしクルマは走ってるだろうから用心しなきゃいけない園内の照明がどれほど明るいのかブランコ周辺はどのていど照らされるのか一度深夜に来て確認しよう、もう一度最初から要点をまとめる、ブランコを利用するにあたっての最大の問題はロープをどう固定するかなんだけどさいわい長さに余裕があるから……」
 一歩引くと、男の呟きは聞き取れなくなる。お願いだから振り返らないでくれと祈りながら、しかし男から目を切れないまま後ずさる。男は微動だにしない。ショルダーバッグの膨らみが気になって仕方がない。
 どん、と腰に衝撃。振り向くと男児と目が合った。ごめんと言うやいなや駆けだし、公園を出る。
 アパートにたどり着いたときにはもう、気持ちはすっかり凪いでいた。自分がなぜ息を切らしているのか不思議に思ったのを覚えている。
 あのロープは処分していない。まだ部屋のどこかにあるはずだ。


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