花の都(インターネットウミウシ)
最初はカルガモ親子のお引っ越しだった。
甘木はハイヤーの後部座席でジュラルミンケースを抱え、じっと緊張していた。
しかしあまりにも車が前に進まないので、少し疲れてスマホの気象のアプリを開いた。
最高気温29度。くもりのち晴れ。注意報は出ていない。
周囲の車も全く動く気配はない。
痺れを切らして車を降りた運転手が戻ってきた。
「甘木さん、カルガモでした」
カルガモでした、と言われても。運転手の話によると大量のカルガモ親子が道路を横断しているのだという。
運転手が撮ってきた動画を見ると、親に連れられた子ガモたちが途切れる間もなく何百匹も移動していた。
その直後からスマホが気象アプリから何度も通知が鳴り始めた。
そこには『注意報:動物』の表示がいくつも並んでいる。
アプリを開くと、北は北海道、南は沖縄まで、全国の動物園や水族館から次々と動物が脱走しているというニュースが入っていた。
飼育されている動物だけでなく、野生動物も一斉に移動を開始したというのだ。
次々と流れてくる速報をただただ目で追っていると、突然、窓ガラスが割れた。
運転手と共に割れた窓の方を見ると、巨大なニホンジカがこちらを見ている。
まるで怒りをそのまま形にしたような大きなツノで、何度も何度も車に当たってくる。
甘木と運転手は反対側のドアから飛び出した。気付いたニホンジカがボンネットに飛び乗ってこちらを見ている。
甘木はジュラルミンケースをぐっと抱きしめ、運転手を置き去りにして走る。
あともう少しで着くのに、どうしてこうなった。
立ち往生している車の隙間をすり抜けて走っていくと、野外音楽ホールが見えてきた。
ホールの看板の前を3頭のキリンが横切っていく。
「えっ、キリンもいるの……?」そう思ったところで、身体が浮いた。
一瞬、何事かと思ったが、大鷲に肩を掴まれたことに気づく。
近くにあった電柱にしがみつき、大鷲を振り払う。
こいつらの狙いはわかっている。このケースの中身だ。
だけど、そう簡単には奪わせない。
しがみついた電柱から街が見える。
至る所から煙が上がり、サイレンが鳴り響いている。
そして、大量の鳥がこの一帯を飛び回っている。
鳩やカラスやスズメだけではない、この辺りじゃ滅多に見ないコウノトリやキジやミナミジサイチョウまで飛んでいる。
甘木は電柱からずり落ちながら、頭の中に、古い映画が思い浮かんでいた。
突然凶暴化した鳥が人々を襲う映画。でもタイトルが思い出せない。
遊歩道に尻餅をつくと、立派な毛色のクジャクが羽を広げて威嚇している。
クジャクを蹴飛ばし、無我夢中で走る。
突然、停車していた大型トラックが甘木の方に倒れてくる。
横っ飛びで交わすと、ズン、と重い音を立てて大型トラックが倒れる。
倒れたトラックを乗り越えて、ゾウの群れが甘木を目指して歩いてくる。
そのゾウの後方では、取材のために飛んでいたであろうヘリが大量の鳥に襲われて墜落していく。
甘木は、野外音楽ホールの周りを囲む森林公園に入り、コウモリやネズミを蹴散らしながら無我夢中で走る。
このコンサートだけは、開催しなければいけないのだ。
人類はこの音を心待ちにしている。音を鳴らせばみんな楽しくなって踊ってしまう。
日頃の不満も鬱憤も怒りも悲しみも全部忘れて踊っていられるのだ。
人類の幸福のためには必要な音なのだ。余計なことを考えずに踊り続けていれば一番幸せじゃないか。
用意された楽曲と特殊な加工を施した和太鼓を鳴らすだけで、身体が自然と動き出す。
最先端技術で生み出した音が人類以外の生物に何かしらの影響を及ぼすかもしれない、そんな論文が出回ったことがあったがひとまず握りつぶしておいた。
上からの命令は絶対だし、今日のためにたくさんのお金と手間をかけて準備してきた。
もし失敗したら、甘木だけじゃない、みんなが大変な目に遭うのだ。
延期も中止もない。やるしか選択肢はないのだ。
このジュラルミンケースの中には、コンサートで使うマイクが入っている。
このマイクが無ければ、完全な音を鳴らすことはできない。
動物共は自分らが聞きたくない音を止めるために、こんな野蛮な手段を使っているのだ。
だけどコンサートの準備はもうできている。あとはこのマイクで歌えば良いのだ。
歌う時間は決まっている。7時23分だ。あと56分もある。
最終調整が必要で一旦研究施設に持ち帰る必要があった。
まさかその間にこんな事態になっているとは。
顔にかかる蜘蛛の巣を振り払い、拾った枝で飛びかかってくるタヌキを追い払う。
この森を抜ければ、野外音楽ホールの前の噴水に出る。もう少しだ。もう着く。
しかし森を抜けたところで、甘木は立ち尽くす。
噴水の前には、ヒグマ、ゾウ、ライオン、トラ、ヒョウ、オランウータン、ゴリラ、アルパカ、モグラ、ヌートリア、ヘラジカ、カンガルー……。
数えきれない動物が野外音楽ホールの前に立ち塞がっていた。
噴水の中にはラッコやセイウチもいる。どうやって来たんだ。
逃げようと思って振り返ると、オオカミ、キツネ、マヌルネコ、セアカゴケグモ、ヒアリ、アミメニシキヘビ、エリザベスを巻いた猫、飼い主を亡くした柴、名前はわからないけどお玉の部分が青い猿……。
甘木はジュラルミンケースをグッと握る。
だったら仕方がない。最終手段に出るしかない。
甘木はスマホを取り出し電話をかけると「オケを鳴らせ。ワイヤレスでいく」と言う。
そしてジュラルミンケースを開け、カラフルなマイクを取り出す。
すると野外音楽ホールの方から大音量で音楽が流れ出す。
陽気で軽快な音色に、生の和太鼓が重なる。
甘木が小指を立て「ハァ〜踊り踊るなァら」と歌い出した。
すると動物たちが一斉に動きを止めて、悲鳴のような鳴き声や叫び声をあげる。
甘木はその中を悠々と歌いながら歩きはじめる。
ざまぁ見ろ、ショウはもう始まっちゃったんだよ。
太鼓の響きのせいなのか、地面がぐらぐらと震えている。
甘木が野外コンサートホールに向かって噴水の周りを歌いながら歩いていると、モグラが掘った穴に足を引っ掛けすっ転んだ。
朗々と音頭を歌っていた甘木の手からマイクがすっぽ抜けた。
宙を舞うマイクをトンビがすかさず掴み、カンガルーに放る。
カンガルーが飛んできたマイクをパンチすると、名前はわからないけどお玉の部分が青い猿がマイクをキャッチし、噴水に浮かんでいたラッコにパスをする。
ラッコは、お腹に乗ったマイクを勢いよく石で叩きつける。
何度も何度も石を打ちつけ、マイクがバラバラに壊れていく。
ゾウに踏まれ、身動きのとれない甘木はマイクがハウリングしながらその音を失っていく様をただただ見ているしかなかった。
甘木の歌が止まっても、音楽と和太鼓は止まらずに鳴り続けていた。
その音もまた、動物たちには不快そうであった。
音楽に呼応するようにぐらぐらと揺れていた地面がより一層大きくなっていく。
すると突然、バキバキとノイズ音を出して音楽と和太鼓が止まった。
そして野外音楽ホールの建物がガラガラと崩れていく。
倒壊した野外音楽ホールの向こうに、巨大な植物が花を咲かせているのが見える。
ホール全体を覆う大きさのラフレシアのような花だ。
甘木はその時、ようやく悟った。
人間以外の生き物、動物だけじゃなく植物の逆鱗にも触れてしまったのだ。
極彩色の花粉が甘木の周囲を舞う。
動物たちは悠々とそれぞれの場所に帰っていく。
もはや立ち上がる気力もなく、倒れたまま巨大な花を見つめ、甘木は歌う。
「花の都の……花の都の真ん中で……」