『美猿が来る』(正夢の3人目)


 美猿が来た。
 
 その日、秋も深まり始めたとある一日は、何の面白みもないほど平日な、ただ消化されるだけの一日として始まった。
 朝というのは思ったよりも喧しい。街行く足音、どこかの誰かの話し声、行きかう車のエンジン音。それぞれがそれぞれの「いつも」を動かしだし、それがひとつの喧騒という名の塊へと変わる。街はひとつの生き物として躍動を始める。
 その日のY県O町も変わらず「いつも」を動かし始めた。昨日とも一昨日とも一年前とも変わらない「いつも」。誰もが今日を「いつも」だと信じ、朝のだるい体を奮い立たせて己のすべきことのために動き始める。そんな一日が始まった筈だった。だが――

 美猿が来た。

×     ×     ×

 最初に違和感に気づいたのは、盲いた燕だった。
 その燕は巣作りの最中、雑に捨てられていた液状洗剤の容器を咥え、中身を頭からぶち浴びて目が潰れていた。右目は完全に見えず、左目はうすぼんやりとしか開かない。これでは長い距離を飛ぶことも叶わず、己の死期を半ば悟っていた。
 燕にとって、この「街」という名の巨大な人間の巣は、己の目を奪った憎むべき存在そのもののように思えた。毎朝のように喧しく吠え始める巣。その喧騒を恨めし気に聞きながら、どこへ行けるでもなく、ただただ上空を舞うのみであった。
 注意深く聞きながら、低く飛ぶ。
 その日も昨日までと同じように街が胎動を始め、燕も昨日までと同じように上空を飛んでいた。だが、ふと違和感に気づく。

 山から音が消えた。

 Y県O町は、ちょうどひょうたんを左に傾けたような形をしている。町の中心部から離れ、ヒョウタンの吞み口側に近づくと、こじんまりとした山が見えてくる。
 K山と呼ばれるその山はO山脈からやんわりと繋がる小山で、特に逸話も面白みもない山だ。バイパス道路を通すために一部が切り崩され、山の麓はちょうどY県O町の端と結びついている。
 何の面白みもない山だが、それでも野ウサギやタヌキくらいはいる。更に街でよく見かける烏の多くがその山を巣としており、いつもなら朝はそれなりに騒がしい。
 だが今日は、いつもの「音」が聞こえない。
 ぐるりと孤を描き、盲いた燕はK山上空を旋回する。
 どうやら、山中の全ての音が消えたわけではないようだ。音が消えている範囲は一定で、それがある地点から、シミュレーションゲームで一本道を作るかのように伸びている。その範囲内ではまるで死滅したかのように動物達の息遣いが聞こえない。
 少し飛ぶ。低く、注意しながら。
 「音が無くなり始めている」のは町から見て山の反対側からだ。O山脈から侵入するかのように「無音の道」が出来上がっている。「無音の道」はO山脈の彼方へとずっと続いていたのだが、燕はそちらを探ることはやめ、旋回してK山上空へと戻った。
 何故なら「無音の道」の先端は、ちょうどいまK山山中にあり、それは未だ「伸び続けていた」からだ。
 盲いた燕は理由のわからない興奮を覚え、ぐるぐると空中で回った。
 周りの音を消し去りながら進行するその道は、まっすぐに町へと向かっていたのだ。

×     ×     ×
 山辺和夫はイラつきながらハンドルを握りなおした。しかしその行為に意味はない。車が動くはずは無いのだ。
 ずらっと並ぶ車列の先頭では、恐らく今も横転したトラックの運転手と乗用車の運転手が揉めているのだろう。雰囲気からして、未だに警察は到着していない。
 田舎の警察は、マジトロい。
 Y県に引っ越してきた和夫が得た学びのひとつだ。都会の警察の対応を知っている人間からすると、本当に驚くほど動き始めない。蛙の背中に警察宛ての手紙を挟んで解放することを「通報」と呼んでいるんじゃなかろうか。
 イラつきながら窓の外に目をやる。高速道路から見える景色は遮蔽がなくどこまでも空が遠く続く。「だからなんだ」と芯から思う。彼方へ続く緑の地平に思わず舌打ちする。妻の言葉がリフレインしたのだ。
 「すごいね、自然がいっぱいある。こういうのがいいんだって」
 どういうのがいいんだ。思い返してみてもよくわからない。わかったようでまるで何もわからない。だが揉めたくもなかった和夫は曖昧に「そうだね。わかるよ」と答えていたはずだ。
 「子供には自然の中でたくさん遊んでもらいたいじゃない」
 それには和夫も同意した。子供はガキ大将くらいでいい。だが実際は、息子の弘和とその友人達は神社の裏に汗まみれで集まって無言で何時間も携帯ゲームをしている。そのあまりにも動きがない地蔵の緊急会議のようなシルエットは、見方によっては「なんかの儀式」にすら見える。
 「確かに会社はちょっと遠くなっちゃかもしれないけど、そこはカズちゃんがどう思うかだから」
 思わず自嘲の笑いがフッと漏れた。
 どう思うかたぁなんだ?
 なにをどう思おうが1mは1mだし、100mは100mだし、片道1時間半は片道1時間半だ。思いで数字は変わらない。残念すぎるがどうやら事実だ。この俺が毎朝立証している。
 ため息をつき、シートに背を埋める。
 「パァッ、パァーーッ!」と、命乞いするアヒルのようなイラつかせるクラクション音が背後から響いた。先ほどから何度も何度も鳴り続けている。しかも嫌味なほど等間隔に。恐らくだがスマホのタイマーか何かで時間を計りながら正確な1分刻みで鳴らしているようだ。誰だか知らない後ろのアイツはきっと「クソ待っているんですけど」と周囲に喧伝したいのだろう。だがこちらも同じく「クソ待っているんですけど」なので知ったこっちゃあない。
 チラリと、バックミラーで背後を見る。ズモモモと並ぶ車列は、前へならえした怨念に見える。それぞれがそれぞれの車内でそれぞれなりにキレたり呪ったりしているのだろう。そう言えば奇声が聞こえた気もする。
 と、ようやく前方で動きがあった。恐らく警察が到着したのだ。前の車は窓から首を限界まで伸ばし、いい報せであることをどうにか確認しようとしている。
 まぁどちらにせよ今より状況が悪くなることはありえない。会社へ報告を入れようとスマホを手にする。いや、まだか。ちゃんと車が動き出して到着の目途が立ってから、などと考えていると、

 パアアァァ―――――――――ッ!!!

 突如、アヒルが撃ち殺された。
 耳を貫く爆クラクション音が鳴り、思わず体に力が入る。と、握ったスマホが鰻が逃げるようにスポンと掌からフライハイしてフロントガラスへ自殺タックルを披露した。急いで拾う。画面に傷。
 「まだ1分経ってねぇだろ」
 呪いを込めてバックミラーを睨みつける。
 すぐ後ろの車でも運転手が首を捻って背後を見ていた。なんだなんだとざわついた空気が伝わってくる。突発的な嫌がらせだろうか。だとしたら大人のすることか。
 「んだよ、ったく」
 バックミラーから目を離す。
 ふと、「なにか」が気になった。
 視線を戻すと、ずらずらと並ぶ車の顔面。「交通事故で渋滞している車中」から見える光景としておかしなことはひとつもない。だが何か気になる。目を細めてじっとバックミラーを見つめる。
 「アレ、なんだ?」
 車間でいえば数十台ほど後ろだろうか。うすらぼけた車の横。道路上に何か黒点のようなものが投げ出されていた。微動だにしない。だが、一度そうだと思えばそうとしか見えなくなった。
 「――人、じゃないのか?」
 それは道路に倒れてピクリとも動かない人間に見えた。
 そんなはずはない。あの倒れている何かの前後に、何台の車が並んでいるのか。現代がどれだけ他人に冷たかろうと、道に倒れている人間がそこにいるのに無視して渋滞に並ぶとは思えない。なのに、一度そう見えたらそうとしか見えなくなっていた。
 和夫は謎の焦燥感に襲われた。
 どうせ車はまだ動かない。
 ガチャリとドアを開け、車外へ出た。

 不思議な感覚だった。

 何かがおかしい。ずっと車内で座っていたから足腰が浮ついたように錯覚したのか。いや、そうじゃない。自分はしっかりと立っている。なのに、どこか異界の星に降り立ったような、そんな、知らない世界な気がした。
 ぐるりと周囲を見渡す。
 渋滞の前方。まだ動き出す様子はない。ズラリと並ぶ車列。延々見ていた光景だ。首を回す。「だからなんだ」な遠い空。渋滞の後方。同じようにズラリと並ぶ車列。その全ての運転席に苛ついた老若男女が座っている。それだけのはず。でも――何かが違った。
 風が吹き抜けた。思わず目を閉じる。そして、違和感の正体に気が付いた。
 「音」だ。
 自分の右耳には様々な雑音が飛び込んでくる。前方から怒鳴り声。横転したトラックの運転手が警察に文句を言っているのだろう。車列からも同乗者と、またはスマホで誰かと話す声が漏れ聞こえている。
 うっすらと、だが意識すればはっきりと。
 言葉としては聞き取れない。会話の内容などわからない。だがざわざわとした人の声の塊が渦巻き、右の耳に届いている。これが「普通」だ。こっちが「普通」だ。
 だが左の耳に届く音には「空白」があった。
 風の音、木々の揺れ、僅かな車の排気音。それは聞こえる。だがそれは右耳にも左耳にも等しく聞こえる。おんなじだ。しかし左耳に届く音には何かが足りない。ズラリと並ぶ車列の後方――そこから、命ある音が聞こえない。
 「ぴあああぁ…………」
 ビクリと思わず目を開く。今のはなんだ? 何かの声か? 体を翻し渋滞の後方を見据える。異様だ。異様だと気付かなければ気付けなかったくらいの差異だ。だがそう思って見れば何かがおかしい。
 生きている者の気配がない。
 後方を見据えながら、23歩、道路の中ほどへと歩み出る。近くの車中にいた運転手が数人、和夫の行動を見て何かあるのかと背後を気にして首を回す。
 和夫はスマホを取り出すと、撮影モードに切り替え画面をズームアップした。さきほどバックミラーで目の端に捉えた、道路に投げ出された黒い何か。
 それは、やはり人間だった。道路にうつ伏せに倒れ、その横では車のドアが開け放しになっていた。恐らく車を降りた所で倒れたのだろう。
 「ぴあああぁ……」「ぴいああぁぁ……」
 再び謎の声が聞こえた。今度は明確に渋滞の後方から聞こえてきたのがわかった。もしかして、この声はずっと響いていたのか? そして自分はずっと気付いていなかったのか? 呪詛を込めて渋滞のケツばかり睨んでいたから聞こえていなかったのだろうか。
 「ぴあああぁぁ」「ぴい」「ぴいあああぁぁ」
 謎の声は徐々に大きくなってきていた。
 こちらに近づいてきている?
 しかし聞いた限り、同一の何かが発し続けている声とは思えない。先に声をあげたモノとは別の個体が続けざまに声をあげているように思える。
 和夫はスマホ画面を更にズームアップする。
 何が起きているのか探ろうと画面を振る。
 映像用語でいえば急なパン。右から左に。そこに――――
 
 「ッはぁぁっ!?」
 
 手から弾かれたスマホが、固い道路に叩きつけられバウンドした。
 だらだらと脂汗が垂れてくる。10月の陽射しに合わせた長袖シャツがみるみると染みていくのがわかる。

 俺は――俺は、何を見た――?

 それは、和夫自身もわかっていなかった。
 スマホの画面に一瞬で大写しになった「それ」。
 それが目に入った瞬間、思わずスマホを放り投げていたのだ。
 興奮と寒気がない交ぜになる。赤青の蚯蚓が背骨の尻にぐるりとしがみつき、そのままケバブ屋の肉塊のようにグルグルと回転しながら上へ上へとあがってくる。
 垂れてきた脂汗のルートが直角に曲がり、和夫は、自分の口角がジョーカーのように吊り上がっているのに気が付いた。
 自分は、笑っていたのだ。
 近くの運転手が危ない物でも見るように和夫を覗き見ていた。だがそんな視線などどうでもよくなるほど、和夫の心臓は高鳴っていた。
 何故高鳴っている?
 わからない。
 何が起きる?
 わからない。
 自分は――何を見た?
 わからない。
 だが何故か確信がある。和夫は確信を持って渋滞の後尾を見つめた。
 唐突に、中学の時を思い出した。初恋の人。みちるちゃん。バカだった。学校にローラースケートを履いてきた。全力で廊下を疾走して止まれなくなって数学の松浦の後頭部を掴んで武藤敬司ばりのフェイスクラッシャーをかましていた。死ぬほど怒られていたが、死ぬほど笑っていた。好きだった。その自由さがたまらなく好きだった。つまらない自分をどこかへ連れて行ってくれるような気がしていた。
 ある日の昼休み、みちるが「神社の階段でローラースケートの練習をしている」と友人に話しているのを和夫は聞いた。机に突っ伏して寝たふりをしながら、体中の血管がドラムを叩いたような興奮で波打ったのがわかった。
 放課後、和夫は遊びに行く約束を全キャンセルし、神社へと向かっていた。
 「なんでカズオいんの?」と目を丸くして驚くみちるの顔が、和夫の脳裏にはしっかりと描かれていた。
 何故ここにいるのかの言い訳と、実際に質問された際のシミュレーションを何十回と繰り返しながら、神社の長い階段の下で、座ったり、立ったり、ウロウロしたり。そして数秒に一度の頻度で、見上げていた。
 艶やかな緑の真ん中を突っ切る長い長い階段。
 錆びた手すりだけが赤い。
 木々の隙間から漏れる夕陽は、まるでステージのようだ。
 来る。来る。絶対に来る。
 ローラースケートを履いた笑顔のみちるが、赤い手すりの上に乗って、シャ―ッて、シャー―――って!

 自分がいるここへ一直線に滑り降りてくる笑顔のみちる。

 それは当時の和夫にとって、この世で「最も美しい光景」だった。
 今まで生きてきた十数年の歴史のどの体験よりも、理由もわからず心打ち震えた絵画や音楽よりも、自分の頭の中で思い描いた妄想ですら、どれもその光景の足元にも及ばない。そんな最上の「美しいもの」を和夫は脳裏にありありと思い描くことができたのだ。
 勿論みちるが今日練習するとは限らない。友人と遊びに行ったのかもしれない。というかそもそも友人に語っていた内容が「神社の人に怒られたからもう行けない」という話だった気もしてきた。
 それでも、確信があった。
 確信を持って、長い長い階段の上を何度も何度も見上げ続けた。
 ――結局、みちるは現れなかったのだが。
 現れなかったことに理由など無い。普通に来なかっただけだ。むしろ来る理由の方が少ないくらいだ。それでも幼かった和夫は、世界に見放されたような気持ちになった。神様が空の上から指さしてゲラゲラと笑っているような気がした。
 真夜中、最後に振り返って見上げた階段は、大口を開けた化け物のようだったのを覚えている。
 
 みちるは現れなかった。
 
 でも、今度は違う。
 
 今度こそ、確信がある。
 胸の鼓動が早まる。ギラギラと見つめる目が輝く。カラカラの喉にごくりと唾が通る。
 地獄の穴から途切れることなく這い出てきたような車列の彼方は、秋空には似合わない蜃気楼のように揺らめいていた。緩やかに上下する高速道路の坂向こうから奇声が飛ぶ。
 「ぴあぁ」「ぴぃ」「ぴいいあああぁ」
 付近の運転手がいよいよ何かあったのかと気づいてざわめいている。
 今頃気づいても遅い。いやいつ気づいても遅かった。
 恐らく今は坂の向こうに姿を隠している「何かわからない何か」を、一瞬だけでも目視している和夫だけは、この場から逃げ出すことが可能だった。
 事実和夫の頭はそうしろと言っている。叫びながら逃げだせ。手を振り回し、泣きながら、どこまでも逃げろ。
 だが和夫の足は金縛りにあったように動かない。和夫の頭は器具で固定されたように一点を見つめて固まっている。
 「ぴいあああああぁぁぁぁぁ!」
 ピンクの軽自動車が奇声と共にぐわんと揺れた。車内にいた運転手が叫びながら跳ねあがったのだろう。次の瞬間にはもう何の音もしない。

 彼方、ゆっくりと坂を上がりながら、ついに「それ」は姿を見せた。
 
 二足歩行の黒点。
 子どものような背丈。
 だがしゃんと背を伸ばしゆっくりと歩く。
 「ぴあああああぁぁ!」
 「ぴぃああああああぁぁ!」
 「ぴやああああ!」
 「それ」が歩き横を通っただけで、車列から奇声があがっていく。
 毒ガスでも散布しているかのように次々と、だが当の「それ」は何も動じずただゆっくりと。
 異常を察し車外に飛び出した者もいた。だが振り返り見て、まるで銃撃にでもあったかのように吹き飛び倒れた。
 「ぴあああああああああ!」
 微動だにできない和夫の耳に、四方八方からノイズが届き始めた。
 「なんだアレ」「なんかいる」「こっちに来てるって!」
 ざわついたノイズが言葉になってようやく和夫の脳に届く。だがその言葉には何の意味もないと和夫は知っている。
 アレが何か?
 そんなもの決まっている。
 アレは、みちるちゃんだ。
 「自分がいるここへ一直線に滑り降りてくる笑顔のみちる」そのものだ。
 それが、歩いてこちらに向かってきているのだ。
 ああ。もうすぐそこまで来ているじゃないか。

 周囲の景色がゆるりと緩む。

 まるでスローモーションになったかのように。

 1秒が1分に、30秒が0.1秒にも感じる。

 思いで時間は変わるのだ。

 和夫はこのとき初めて知れた。

 ざわめきのノイズはもはや聞き取れないものになっていた。

 ゆっくりと「ソレ」が近づいてくる。

 もっと早く。いや、もっと遅く。

 相反するふたつのじれったい想いが世界を歪める。

 「それ」は、まるで月の上を歩行するかのように、

 ゆっくりと手足を交互に前へと出して、

 前に一歩、前に一歩、前に一歩、

 ――一瞬の逆光。

 時刻の悪戯が朝陽を和夫の瞳に刺した。

 視界が真っ白に染まり、思わず目を伏せる。

 再び顔を上げたその時――「それ」が見えた。

 ――――猿だ。

 美しすぎる、猿。

 種族としては日本猿だろう。だがその毛並みは黄金色に輝いている。いや黄金色という表現が正しいのかはわからない。まるで原初の太陽が初めて大地を照らした時のような、生命全ての誕生を祝う讃美歌のような色。そしてその毛先一本一本が陽の光を浴び美しく揺らめく。それは超高性能カメラで人体の細胞を観察した際に命そのものの神秘に涙してしまう時の感動にも似た揺らめきだ。凛とした二息歩行の立ち姿は古今東西の全スーパーモデルが扇形に集結して泣いて土下座するような、最も自然かつ最も美麗な立ち姿であり、生物として最高峰のフォルムとはなんだという難題に解答を叩き出していた。逆光を背に立つその姿は神聖そのものであり、復活直後のキリストや救済に来た大日如来のイメージはこの光景から時間を逆算させてパクったものだと言われても頷かざるを得ない。そして何よりもその顔だ。日本猿とは思えない西洋彫刻のように彫りの深いその顔面は、世に言うイケメンハンサム男前二枚目その全ての要素を足して割らずに抽出したような顔面の中の顔面と呼んで然るべき完璧な顔面だ。パーフェクトフェイス。もう一度言う。パーフェクトフェイス。全ての芸術はこの猿の顔面から始まりこの猿の顔面に辿り着けずに幾千年もの時が過ぎてしまったのだ。そんな風にしか思えないフェイス。そのフェイスの中でも最も象徴的な切れ長の瞳は虹色の光彩を帯び、この世界全てを優しさと憂いを持って見据えているような、そんな神の瞳だった。
 
 山辺和夫は高速道路の真ん中で涎を垂らしてその「美猿」に見入っていた。
 
 その時間は、およそ1秒。

 美猿の瞳がフッと和夫の両目を捉えたその瞬間、和夫の脳は視覚から雪崩れ込んでくる圧倒的な「美しさ」の分量に世界の認識を諦め、全てをシャットダウンした。

 「ぴいいいいあああああああああああああああああああああああああ!」

 奇声をあげながら、山辺和夫は仰向けにぶっ倒れて気絶した。

×     ×     ×
 盲いた燕は、興奮のあまりコークスクリュ―のように飛んでいた。
 鳥類である燕がコークスクリュ―を知っている筈は無い。なので自ら自然界には存在しない運動を編み出してしまう程の興奮を感じていたのだと思って貰いたい。
 Y県O町に何が起きているのか、その詳細は燕にはわからない。確認しようにも見ることができないのだから仕方がない。
 だが何か「とってもおかしなことが起きている」のは明らかだった。
 K山中からO町へと降り立った「無言の道」は、そのままあの憎き人間どもの発する音を消し去りながらドンドン進行を続けていた。
 注意深く聞くことで、恐らくは道を作っている「何か」の存在があるのだということもわかってきた。
 その「何か」は一定のスピードで一直線に進み続け、そしてその「何か」の範囲内にいた人間は悉く断末魔の悲鳴をあげて倒れていくのだ。我が物顔で己の巣を闊歩していた人間達の音が、なすすべもなく消えていく。そして当の「何か」は一切自分の進路を曲げることなく、堂々と突っ切っていくのだ。
 それはまるでこのY県O町という人間の巣を、ゆっくりと袈裟懸けに斬り裂いていくようで、燕にとってこれ以上に痛快な現象は存在しなかった。
 ああきっと、あの「何か」は、山から下りてきた自然そのものだ。
 驕り高ぶる人間どもに一泡吹かせる為に遣わされた、使徒なのだ。
 そのまま潰せ。
 そのまま進め。
 自分がここで聞いているから。
 グルグルと空中を回転しながら、盲いた燕は人間どもの巣を斬り裂いていく「何か」に想いを馳せた。それは恋のようでもあり信仰のようでもあった。
 行け、行け、そのまま行け。どこまでも行ってしまえ。
 その想いに応えるかのように、「何か」はO町の中心部へと進行していた。
 当たり前だが、その「何か」が目指しているものや、どこまで行こうとしているのかなど、燕は知る由もなかったのだが。
×     ×     ×
 陰山ケイは、いつもの朝と同じように、通学路を歩いていた。
 首の角度は固めたような45度。己の靴先と踏み行く地面。それ以外の世界は真っ暗に抜け落ちているかのように、視界には同じ映像だけが続くように腐心する。
 耳にはごつい乳白色のヘッドホン。今までの人生で確実に一番高い買い物だった。選びに選んだ圧倒的なノイズキャンセリング能力は、外界の音を完全に遮断してくれる。
 流れる音楽は、意味のある言葉でなければ何でもいい。サブスクリプションしている音楽アプリの中からなるべく途切れず転調も無い、ノイジーな異国のバンド音楽を幾つか選んで保存してある。
 今日選んだ曲は「高音男③」。どこかの国のだれかのバンドのなんかの曲だが全て忘れた。「ギャーギャー」ではなく「アーアー」なので幾分耳に優しい。高音男のたぶん何かを悲痛に訴えかけているほそやかましい声は、それはそれで雑音なのだが、それでもヘッドホンの外側に渦巻く雑音よりは何百倍もマシなのだ。
 「感動しちゃった!」「メッチャ笑えるんだってば」「すっごいカッコいいの」「泣いちゃってさ~」「サイアクだったし」「楽しかったね」「アレはしんどすぎ!」「クソくだらねー」「わたしは面白かったよ」「ダサ」「キレイだったね」
 何故この人たちはこんなにも「感想」を言うのだろうか。
 何かを見たり体験したりして、そこで感じたことや思ったことがあって、それを自分以外の人間に伝える、という「音」。
 陰山ケイはその音がどうしても苦手だった。
 嫌っていたり憎んでいたりする訳ではないと思う。何故なら誰が何を思い何を言おうが、それは陰山に何のプラスもマイナスも齎さないものだからだ。だが何の意味もない雑音と一緒かというとそれもまた違う。陰山にとってその音の群れは、ただただ「煩わしい」ものなのだ。
 日本語として理解出来る言葉というものは、耳に入ってきた後にわざわざ「こういう意味です」と解析され、それが自動で届けられる。なんでそんな意味の無いことをするのだろうといつも思う。伝えられても何もない。「はぁそうですか」以外に言葉はない。そんなものわざわざ私の脳まで持ってこないでくれ。
 だが街中や学校では無遠慮に、不躾に、そんな言葉の群れが大気中に向けて延々と放たれ続けているのだ。「あなたに言ったわけじゃないけれど」。そんなことは知っている。しかし実際に音は飛ばされているじゃないか。そこにあるのならば耳に入ってくる。陰山からしてみれば、それは新手のテロと同じだ。
 だから陰山は、乳白色のヘッドホンという盾で我が身を守る。意味のある雑音を意味の無い雑音で殺す。これは陰山にとって、至極真っ当な「対策」なのだ。

 陰山ケイは自分が孤独なのかどうかがいまいちピンと来ない。
 初対面のふたりにひとりにはハーフと間違われるような地黒の肌。痩せ気味の顔は頬骨が印象的に突き出ており、自分でも白亜紀の恐竜に似ているなと思う。母親からの遺伝でかなり視力が悪く、小学校時代は目つきが異様に鋭かった。そのため「黒トカゲ」だの「ゲンジン(元は人食い原人だった)」だのと呼ばれていた。
 でも、それだけだ。そこそこ中流の親が入れてくれた私立の進学校では陰湿ないじめ自体が存在せず、「からかい」や「いじり」レベルのものだった。陰山はそこで、クラスのお調子者や冗談好きの教師達が想定するような反応が取れなかった。例えどんなに失礼なことを言われても「はぁ、まぁ」と首を傾げるのが限界で、何かしらの反応を期待していたお調子者や教師は途端にバツが悪そうな顔になり、もごもごと謝って来たりする。そんな姿を見ていたので「いい人達なんだろうな」とわかっており、特に腹が立ったりすることもなかった。
 だが同時にクラスの輪に入る機会もなくなり、そして陰山自身も積極的に関わろうとしなかった結果、陰山ケイは「いるけどいない人」のような存在になっていった。
 教室にはいる。言われたことがあるならする。授業は受ける。テストがあれば頑張る。そして下校の時間が来たなら帰る。何の不満もなかった。唯一微かに思っていたことはひとつだけ。
 一日がこんなに長い意味ってなんだろう。
 余っている時間が多すぎる。それはなんというか、「一日」を設定した側の問題な気がした。勿論自分の場合は余っているが、足りない人もいるのだろうともわかっていた。だから自分は、ただただ「そっち側」に感じる人間なんだと思っていた。
 特に良くも悪くもない成績で、無難に中学に進学し、眼鏡を買った。大きくて丈夫なやつがいい。レンズが大きく真四角の眼鏡を商店街の眼鏡屋で買った。母親からは「もう少しオシャレなやつでもいいのに」と言われたが、「グッドデザイン!」とタグが貼られた細長い弦の眼鏡は、陰山の目には魅力的な物には見えなかった。
 春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、ズレることなくそれを正確に3回繰り返し、陰山は高校生になっていた。自宅からちょうどひと駅分の距離だったが定期券は購入せずに徒歩で通学する事に決めた。陰山はなるべく「余った時間」を消化する必要があったし、体を動かしていれば少しは早めに眠れるのでそっちの方が都合が良かった。
 外界の雑音が特に気になり始めたのはこの頃からだ。
 昔から「煩わしさ」は感じていたのだが、高校になると周囲の雑音の内容も多種多様になってくる。流行りの映画やドラマ、タレント、お笑い芸人、そういった「昨日見たもの」の幅もだいぶ増えた。小・中学校時代なら「みんなだいたい一緒」だったのでまだ気にならなかったのに。何より体験の話のジャンルが増えたと思う。恋愛や部活、家庭の話。開けっ広げな性の話が飛び込んでくることもある。
 耳に入ってきた言葉の群れが、意味に加工され、脳に届けられる。その度に、どこか後ろめたいような、自分が卑しいような感覚があった。同時に何の関係があるのかという苛立ちも覚えるようになってきた。
 陰山のことなど誰も見ていない。陰山は「いるけどいない人」なのだ。誰も陰山に言葉を送ってなどいない。
 世界の全ての感想は、陰山には関係ない。
 なのにその雑音が耳に届くことによって、わさわさする脳と体が面倒だった。何も思うことなどないのだから、何も思わなければいいのに。
 陰山は母親が管理していた自分の「お小遣い」を初めて所望した。今まで月毎に決められた小遣いはあったが、大抵使い切らないため母親が一括で管理していたのだ。全ての小遣いを母親はちゃんと取っておいてくれ、毎月の使ったお金と残ったお金を丁寧にノートに記してくれていた。そのノートを見た時に少しだけじんわりとした記憶がある。
 いくら必要かわからなかったので多めに小遣いの引き出しを頼むと、何故か母親は喜んだ。意味がわからなかったので理由を聞いた。
 「ケイに欲しい物が出来たなんて嬉しいから」
 ニコニコと笑う母親を見ても、やっぱり陰山には意味がわからなかった。
 茶封筒に入れた数枚の一万円札を持って県内でも大きめの電気屋まで電車を乗り継いで出かけた。ヘッドホン売り場の店員のやけに丁寧なお勧めを聞きながら、陰山は乳白色のヘッドホンに決めた。購入を告げると店員は少し驚いた表情を浮かべてすぐにひっこめた。どうやら高校生が買う物としては分不相応な値段だったらしい。しかしすぐにその店員は目を輝かせて笑いかけてきた。
 「お若いのに、音楽がすごく好きなんですね! 僕もそうだったからわかります!」
 「ここまでいいやつは買えなかったですけどね」と白い歯を見せて笑う。ビジネス的な笑顔ではなく、たぶん本当に嬉しかったんだと思う。陰山は少しだけ、申し訳ない気分になった。だが同時に「本当に意味がわからない」とも思っていた。

 今、陰山の耳にはその時に購入した乳白色のヘッドホンが付けられている。
 「高音男③」が、何語かわからない声をドラマチックに震わせている。
 だがそれで陰山が思う事や感じる事は何もない。感想は無い。
 勝手知ったる通学路を、いつもと同じ画角で、いつもと同じスピードで、前へ前へと進めていくだけだ。
 伸びる白線。排水溝。黒くなったガムの跡。知らない雑草。知らない雑草。ブロックから咲くハルジオン。今日も空き缶がこぼれているゴミ箱。「れ」の字がかすれた「止まれ」が来たら右へ曲がる。
 いつも変わらない景色、という事もない。いつだって少しだけ何かが違う。雨が降れば水たまり。雪が降れば薄氷。軍手の片方。轢かれて潰れたコンビニのパン。土の付いた水筒。吐しゃ物。破かれた雑誌。靴。剥製みたいに死んでいる烏の死骸。
 偶に大物を見つけると「すごいな」と思う。そういえばこれは感想かもしれない。だが誰かに伝えたいとは思わない。
 一度血まみれのジャンパーが丸めて捨ててあったことがあった。「すごいな」と思った。だが立ち止まることなくそのまま歩いた。流石にきっと「なんか」があったのだろうとは思う。だがその「なんか」を知りたいとは思わない。「なんか」は「なんか」だ。いつでもどこでもそこら中で起きている。そういう意味では珍しくもなんともない。
 陰山ケイは自ら世界に関わらない。
 もし何かの事件に関わる証拠だったのなら、自分なんかに見つけられた血まみれジャンパーの方が悪い。他の誰かに見つけて貰えばよかったのに。
 その日、秋も深まり始めたとある一日も、陰山にとって「いつも」の通学路が続いていた。変わらないものは変わらず、変わっているものもちょっとある。
 続く白線。知らない雑草。知らない雑草。箸の飛び出たコンビニのゴミ袋。昨日もあった割れたブロック。空き缶。倒れている自転車。知らない雑草。隅に転がったボールペン。中身がこぼれた通学バック。手。

 ――――手?

 流石に、立ち止まった。
 45度に固定した首をゆっくりと回す。「高音男③」のほそやかましい歌声をBGMに陰山の見ている画角が移動する。手は腕になり、伸びた腕は見慣れた学校指定のブレザーの袖に潜り込んでいき、仰向けに倒れた女子高生が視界いっぱいに映りこんだ。白目を剥き、口の端から泡を噴いている。
 「……ッッ!?」
 思わず後ずさる。「すごいな」どころじゃない。「すごすぎる」。おおよそいつもの通学路に落ちていていいもんじゃない。
 バクバクと動く心臓。その動きに慣れていない。口をすぼめて最近ようやく冷たくなってきた秋の空気を入れて出して入れて出して。緩やかに頭が動き始める。流石の陰山も、自ら世界と関わらないどうこうで処理できる問題ではないとわかっていた。世界が強引に腕を掴んで振り向かせてきたのだ。
 恐る恐る彼女に近づき、口を開く。
 「――っつ……ぅ……あ、いぁ……」
 言葉が出てこない。そこで初めて自分がこの事態を理解できずに恐れているのだと気が付いた。その白目を剥いた名前も知らない学友は、生きているのか死んでいるのかも判別がつかない。陰山は唇端の筋肉がビクビクと引き攣るのを感じながら、その子の元に屈みこもうとした。と、体勢を変えたことで視界の端に何かが映った。
 「…………ウソでしょ」
 数m先、同じように仰向けに倒れた別の女子高生の姿が見えた。複数人が折り重なるように倒れている。
 ここまで来て、ようやくパニックが心の芯に届いた。
 「きゃあああああああああ!!!」
 叫ぶと同時に涙が出てきた。幼児がぬいぐるみを抱くように学校指定の鞄をぎゅうと抱き締めて、「誰か」を求めて右、左と頭を振る。「誰か」が誰かは誰でもいい。これはなんですか、これはどういう状況ですか、怖いです、すごく怖いです! その「感想」を共有したくて人を探した。
 だが、一人称ホラー映画でモンスターに遭遇したカメラのように、左右に振り回された陰山の視界が捉えた世界は、「感想を共有する誰かが欲しい」という彼女の小さな願いを特大ハンマーでぶち壊した。
 同じ制服の女子高生が5人、背広を着たサラリーマンが2人、地味な色のワンピースの主婦がひとり、紫のカーディガンを羽織った老人がひとり。
 合計9人。それが陰山の位置から見える道路に倒れている人間の数だった。
 「~~~~~~~~~ッッッァ!!」
 声にならない音のついた空気を口から吐き出しながら、陰山はいつの間にか一変していたこの世界を認識した。
 自分が「いつも」の道を凝視しながら歩いている最中に、乳白色のヘッドホンから流れる「高音男③」の声が外界の雑音を悉く殺している最中に、一体何が起こったのか。
 知らない世界だ。こんなの知らない。こんなの意味が分からない。怖い怖い怖い!
 陰山の全身の筋肉は、あまりのショックを前に「硬直」か「爆発」の二択を本能に迫った。「硬直」を選べば、きっと陰山の脳は知らない世界を嘘だと断じてその場で全てをシャットアウトして気を失ってくれただろう。だが、
 「ずっ……がっ……はぁあっ!」
 陰山の筋肉は走り出した。訳がわからなすぎてボロボロと出てくる涙と鼻水を啜り上げる。本能は「爆発」を選んだ。何故なら「世界が切り替わった瞬間」を陰山は体感していない。だからきっと、これはさっきまでと同じ世界だ。続いた世界だ。嘘なんかじゃない。自分だけが「何か」に気付けなかっただけなのだ。それならきっと、すぐそこに「いつも」の世界があるはずだ。
 陰山の筋肉が遮二無二動く。膝を吊り上げ踵を叩きつけ、ただただ走ることのみに腐心する。求めるものはひとつだけ。「誰か」。
 誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か――――ッ!!
 しかし走ることで移り変わっていく陰山の視界が捉えるのは、「いつも」の通学路に倒れる無数の人、人、人。きっとあの女子高生と同じように、白目を剥いて、泡を噴いて。
 微動だにしない「誰か」たち。探しているのは彼らじゃない。立って、歩いて、動いている、普通の、私と同じ、生きてる人。
 「誰かいませんかああああぁぁぁぁぁ!!!」
 こんなに大きな声が出るんだと自分で驚いた。叫び声をあげながら、町一番の大通りに駆けこんでいく。はたと、足が止まった。
 
 ――そこは静止した世界だった。
 
 倒れている人々。
 動かない車。
 信号機だけが空しく明滅している。
 よく知る街並みのまるで知らない姿。
 一枚の絵画のように、世界は止まっていた。
 ニュースで見た爆撃があった街の写真を思い出す。
 それは、巨大な何かが通り過ぎた跡地。
 はぁはぁとひとり荒く息を吐きながら、陰山は思っていた。

 ――本当に、ついさっき、世界が終わってしまったのだろうか?

 自分だけが気付かない間に。
 そう思ったらなんだか堪らなく哀しくなってきた。なんで? なんで自分だけがスルーされたの? なんで自分も一緒に、終わらせてくれなかったの?
 確かに陰山は「いるけどいない人」だ。正直に白状すれば自分でそうなるように振舞ってきた気もする。いつもみんなの輪の一歩外に。話しかけられる雰囲気を感じたら、先手を打つように早めに立ち上がってどこかへ。実際に話しかけられたら、なるべく盛り上がらないように、なるべく楽しくない奴のように。それが意識的か無意識的だったかはもう陰山自身もわからない。
 申し訳ないなと心のどこかで思っていた。でもそれを超えて「煩わしかった」。
 悪いことですか? それは?
 わからないけれども、もしそれが悪いことだったとしても、だとしてもだとしても、こんなのあんまりじゃないか。
 私を残して終わるなんて、そこまで世界が嫌いじゃないよ。
 静かに完全なパニックに陥った陰山はボロボロと涙を零し、垂れ流れる鼻水を子供のように何度もずるると啜る。もうしゃがみこんで泣き出したかった。お父さんとお母さんを駄々っ子のように呼びたかった。だが体は何もしてくれず、呆然と終わった世界を眺めていた。と、一瞬の違和感――――何かいる。
 バッと視線をやったそこには今は大型バスが止まっている。
 だが見間違いじゃない。チラッとだが確かに見えた。
 この世界で「動くもの」。
 人だろうか? わからない。
 大人のサイズではなかったと思う。
 子どものような背丈で、二息歩行。
 こちらに背を向けバスの影に消えていってしまった。
 でもようやく見つけた。
 「誰か」いる。
 陰山の筋肉が再度、蘇ったように爆発した。
 走る。走る。走る。
 この機会を逃したら二度と動くものに出会えないかもしれないという想いが全身を奮い立たせる。
 車道のど真ん中を一直線に突っ切っていく。止まっている車がうざったい。ボンネットに飛び乗り蹴り上げて。走る。走る。お願いだから止まって。幻じゃなかったなら振り向いて。私に気が付いて。
 待って。待って。待って。
 「誰か」が消えた大型バスの影に飛び込んでいく。

 「待ってよおおおおおぉぉぉっ!」

 目を瞑って叫んだ。
 気配がした。
 こちらの叫びに気が付いたのか、「誰か」は立ち止まり振り向いた。
 陰山は目を開き、「それ」を見た。

 ――――猿だ。

 美しすぎる、一匹の猿。

 「ぴいいあああああああああああああああああああああああああああああ

 陰山ケイの目に飛び込んできたこの世の物とは思えないほど美しい存在は、まず陰山の脳のドアを蹴り破って突入し、一瞬で脳の中枢を殺害して制圧し、すぐに全身に飛び散り、彼女の全てを狂わせた。
 口は勝手にサイレンのような奇声を発した。
 全ての筋肉は戦線を放棄し次々に自殺した。
 目玉はグルリと回ってホワイトアウトした。
 意識が飛ぶ。体が崩れる。ぶっ倒れる。
 当然そうなる筈だった。が、

ああああああああああああああああああ……っっっつうぅ!」

 一度死んだ筈の太ももの筋肉がザン!と地を踏んだ。
 奇声を抑え込んだ口の端から血の筋が垂れる。
 目玉には再び色が戻り世界を捉えた。
 
 目の前には猿。
 究極の美猿。
 それが、しっかりと見える。

 陰山ケイは、何故いま自分が立っているのかわからなかった。
 確かに一度は気を失った。
 脳も筋肉も目の前に存在する極限の美しさに殺された。
 「敵うわけがねえ」と匙を投げた。
 だがひとりだけ「約束が違う」と踏み止まったものがいた。

 心が美猿を拒絶した。

 目の前の美猿は、陰山を不思議そうに見つめていた。
 そして――きょとんと、首を傾げた。

 「ふぶごはっつ!!」

 陰山の両鼻穴から鮮血が噴射した。
 なんて愛らしい所作。ただ首を傾げただけで、そのチャームは臨界突破。天使が嫉妬でハンカチを噛み千切って食すだろうイノセンス。シンプルに言えば「超カワイイ」。
 最上の美しさの中に超カワイイまで混ぜられては、普通は死ぬ。断言するが死ぬ。だが陰山ケイは立っている。どくどくと鼻血をぶち垂らしながらだが立っている。
 
 美猿は更に不思議そうな顔つきになり、その虹色の光彩でじっと陰山を見つめてきた。バリバリと波動のようなものを感じる。波動以外に「波動のようなもの」が存在するのかは知らない。そもそも波動とは何かもちゃんとは知らない。とにかく、手も触れずに見つめられているだけで、全身が揺すられているようにガクガクと震えて止まらないのだ。「美し過ぎるものが同じ空間に存在する」という「事実」だけで、ぶっ倒れた方がいいのでは?と肉体の全てが提案してくる。
 だが陰山は膝を折らない。立っている。
 何故立っているのだろう?
 そんなのわからない。
 自分は特別な誰かじゃない。
 ただの「いるけどいない人」だ。
 同級生に名前を憶えられているかも怪しい。
 教室の末席に、世界の片隅に、設置されているだけの置物だ。
 それなのに、何故だろう。
 「私は負けてはいけないんだ」という謎の決意が、陰山の胸には溢れていた。

 約束がある。そうだ。約束があったんだ。

 それは言葉にした記憶の無い約束。
 十何年の時間をかけていつの間にか結んだ契約。
 ――神様、私と取り引きしませんか?

 ザッと、美猿が半歩近づいた。
 びくう!と体が引き攣る。
 ここまできたら流石にもう理解している。「いつも」と違うのはこの美しすぎる猿の存在だ。この猿を目撃した人間が全員、そのあまりの美しさに泡を噴いて気を失ったのだ。
 「そんなバカなことがあるものか」などと思う隙は一分もない。実際に自分は一度気を失ったし、何より目の前を見ればいい。
 そこに理由が立っている。
 何故自分がこんなにもじっくりとその姿を見ていられるのか不思議なくらいだ。

 人の手で再現する事は不可能だろうその黄金色の毛並みは、命溢れる大自然を一度ひとつにまとめて煮しめて絞り出した雫のような、生命の神秘そのものの色。身長でいえば幼稚園児と変わらないだろう背丈の筈なのに、その立ち姿から溢れでる気品と頼りがいはどういうことだ。今すぐその胸に飛び込み泣きじゃくりながら人類史の全ての罪を懺悔して「よく言えたね」と頭を撫でて貰いたい。神の父性と仏の母性のダブ盛り(ダブル盛り)ラブが、その全身から漏れ出ている。漏れ出ているつったら漏れ出ている。そして何よりその顔だ。日本猿とは思えない西洋彫刻のように彫りの深いその顔面は、例えばトムクルーズひとりを1トムクルと換算するのならば、1000万トムクルだろう。そして木村拓哉ひとりを1キムタクと換算するのならば、1000万キムタクだろう。トムクルとキムタクの顔面の差。それを微差として数字の彼方へぶん投げる程の顔面。そのパーフェクトフェイスをもしも通りすがりのジュノンボーイが見たならば、圧倒的顔面レベルの差に「こんなものただの皮だ!」とお母さんや同級生がいっぱい褒めてくれた己の顔皮をむしり取り天日干しにするだろう。絶対にすると断言しておく。

 陰山ケイは、恋をしたことがない。
 それは「約束」の大きな枠のひとつだからだ。
 それ故に、陰山は目の前の美猿の美顔を、どうにか真正面から見れている。
 テレビや雑誌でイケメンやらなんやら褒め称えられている顔、学校で一番モテてモデルのスカウトが来たと噂のサッカー部の宮本の顔、しっかりとつぶさに見たことはないが、それでも「顔はただの顔」と思うだけで済んだ。
 しかし目の前の生物史上最美顔といえる顔面は、陰山の体の奥の奥、生物の本能としての「恋」を、ひっ掴んでズルズルと引きずりだすのに十分な存在だった。
 虹色の光彩が陰山の瞳を覗く。

 「………………ッッ」

 唇を、噛む。
 少しずつ鼓動が速まっているのがわかる。
 美猿までの距離はおおよそ3歩。やめて。見ないで。きょとんと、不思議そうに見つめてくる美猿の様子は、恐らく「自分と会ったのに泡を噴いて倒れない」陰山という初めての存在を、純粋に疑問に思っているだけだろう。だがそのイノセンスな視線は逆に、陰山の胸の奥に巨大な鬼の手のように突き入れられ、ぐちゃぐちゃに掻き回される。
 見てはいけない。これ以上見てはいけない。そう思う。だが目が離せない。穴が開くほど美猿を見つめてしまう。それはテレビで見た野生生物と出会った際に命を守る豆知識を実践しているからか? んなわけない。「勿体ない」のだ。こんな美しいものを、この目に留める時間を、刹那であろうと失いたくない。そんな、陰山の脳とは別の場所で起きた思考が美猿を捉えて離さない。

 ザッと、また半歩。

 「~~~~~ッッッ!」

 美猿が近づくだけで世界が壁ごと迫ってくるような圧を感じた。
 すぐそこに美し過ぎるものがいる。
 鼓動が早まる。顔の中を赤血球が駆け回る。脳が茹だったように何も考えられなくなっていく。
 走馬燈のように乱雑に巡る思考。その中のひとつ、皆が言っていたのはコレなのか、という気付き。それが「聞いたことのある雑音」の幾つかを陰山の耳に蘇らせた。

 「タッくんが近くにいるだけでわたし世界一幸せなんだ~!」
 「えー、なんでよ。キスん時は目開けた方が楽しいじゃん」
 「推しの顔がすぐそこにあってね! も~生きてて良かったぁ!」
 「あ、いや、今みゆきと目が合ったよーな……喜んでないって!」

 にへら、と陰山の唇が吊り上がった。
 犬歯がぎらりと覗く。
 それは、攻撃的な野生生物の顔と似ていた。
 
 ふざけるな。ふざけるんじゃない――ブチ殺すぞ?

 陰山ケイはいつの間にか獲物に飛び掛かる豹のように膝に重心を預けていた。

 バカにすんな。カスが。クソが。ボケナスが。違う。そんなんじゃない。そんなん許さない。そんな私は――私が絶対許さない。

 両方の鼻穴からどろどろと流れる赤黒い血を袖でぐいと拭い取り、血走った目で美猿の顔を睨みつける。
 心の中を慣れない罵詈雑言でいっぱいに敷き詰める。少ないレパートリーの棚を全てひっくり返し、ひとつひとつに「本気」を込めて、ありもしないテレパシーで届きやがれと引き金を引く。
 お前、私にもう触れるんじゃない。
 お前、私にもう近づくんじゃない。
 歯を剥きだしにして、私を害するものを威嚇する。

 止まった世界で、美し過ぎる猿と、誰でもない女子高生が睨みあう。

 美猿が、揺らいた。
 生き物として「襲われる」危険性を感じ、半歩後退する。
 それを見て陰山の心臓がどっどと早打つ。このままいなくなる? 消える? またひとりになる? それでいい!
 「思えること」を片っ端から思っていく。
 お前は要らない。
 私の人生にお前は要らない。
 だからどこかに消えちまえ。
 本能とは真逆の言葉を脳味噌が叫ぶ。自分は未だにこの美し過ぎる猿から目を離すことができないのだ。その「事実」が陰山の本能。だが自分はその美しい存在を睨みつけ、罵詈雑言を心で浴びせかけている。そうしなければいけないからそうしている。
 その相反する現実が、陰山の胸に冷たい風をひとつ走らせた。

 ――――哀しい。
 
 私は今、嘘をついているのかな?
 自分に嘘をついているから哀しいのかな?
 でももう、引き返せないんだ。
 もうここまで来ちゃったんだから。
 
 じいと、美猿が見つめてきた。
 陰山の血走った瞳の奥を見据えるように。
 なんでこの子はこんなに必死なんだろうと探るように。
 
 陰山ケイには「約束」があった。
 その約束は誰かとした約束ではない。
 強いていうなら世界とした約束。
 その約束は言葉にした約束ではない。
 いつの間にか結んでいた約束。

 いつからそんな風に思い始めたのかは覚えていない。

 教室の片隅でおともだちのみんなが笑い合う姿を見ていた時か。
 水たまりに映ったひとりで下校している自分に気付いた時か。
 本当は少しだけ気になっていた佐木くんがひとつ上の南さんと付き合っているという噂話が、耳に飛び込んできた時か。

 何かを思う自分が嫌だった。
 何かに気付く自分も嫌だった。
 何かを聞いてしまう自分も嫌だった。

 全ては雑音でいい。
 知りたくないのだから知らなくていい。
 感想なんて、ひとつもない。

 自分でそうなると望んだのだからそうさせてくれ。
 その代わり、その代わり、
 傷つくことに耐えるため、
 自分をどうにか保つため、
 ひとつだけ、私に「思わせてください」。

 美猿は、目の前に立っている「倒れない変なの」の剥き出しの歯も、血走った目も、全ては見せかけなのだと気が付いた。
 「倒れない変なの」までの距離はおおよそ3歩。

 1歩。

 美猿が近づくと陰山の全身が総毛だつ。
 それは理屈で考えた危機ではなく、生き物の、本能としての危機。
 「殺される」
 それは物理的な意味ではない。
 心臓が止められようが脳が真っ二つに割られようが、まぁ仕方ない。
 そっちじゃない。
 そっちじゃない方が殺されるのが、私は何より怖い。

 2歩。

 陰山ケイは動けない。
 何が起こるかはわかっている。
 だって目の前に「それ」がいる。
 この存在は、
 このありえないくらい「美し過ぎる猿」は、
 私を殺すために現れたんじゃないだろうか?
 そうじゃなけりゃ、意味がわからない。

 3歩。

 美猿は陰山ケイの眼前で立ち止まった。
 美し過ぎるものがそこにある。
 心がどろりと解ける。
 イヤだ。それはイヤだ。
 だって私は「約束」したんだ。
 全部間違ってたことになる。
 私は本物のクソになる。

 そんなこと無いと思っていたから、願ったんだ。

『私は一生感動しないから、こいつらを見下す権利をください』

 それが、陰山を支えていた約束だった。

 みんなみんなバカみたいに「感想」を言う。
 みんなみんなバカみたいに「思ったこと」を言う。
 私はなんにも感じない。
 私はなんにも思わない。
 いつからそうなったかは知らない。
 いつからそう思い込んだのかは知らない。
 いつの間にか「私は私になっていた」。
 みんなそうでしょ? おんなじなんでしょ?
 だから、お前らなんて嫌いだ。
 嫌ってないなんて嘘だ。憎んでないなんて嘘だ。
 ベラベラベラベラベラベラベラベラ。
 なんでそんなによく喋る。
 お前らは、バカだ。
 頼むから、そう思わせてほしい。
 その代わり、約束するから。
 私はお前らのいるところには行かない。
 お前らの「楽しいこと」は放棄してやる。
 だから、いいよね?
 ――――お前らはバカだと思っておかせて。

 とんだ独り相撲だ。
 でも陰山にはそれが必要だった。
 耐えるために。生きていくために。

 ゆっくりと、美猿が両手を伸ばした。
 ごつい乳白色のヘッドホン。
 今の今まで「高音男③」のほそやかましい声は、頑張って世界を雑音に変え続けてくれていた。そんな陰山の最後の砦に美猿の両手がかかる。
 「やだっ、やめて」
 言っても願いは通じない。
 当然。
 だって相手は、猿なのだし。

 陰山のヘッドホンが外される。
 同時に驚くほどの「無音」がその耳に飛び込んできた。
 絵画に取り込まれたのかと錯覚するような静けさ。
 まるで世界の底にいるみたいだ。

 美猿は虹色の光彩で陰山を見つめると、微笑むように口を開き、言った。

 『ウキイ』

 「――――ッッッッッ!!!!!!!!!!!」

 『ウキイ』だ。
 『ウ』と『キ』と『イ』だ。
 だが世界の底で響いたその3音は、陰山の耳の中で爆発した。
 モーツァルトもベートーヴェンも土下座しろ。ストラディバリウスもジミヘンの白いストラトキャスターも回れ右して帰宅しろ。湖畔の爽やかな朝に響く小鳥の囀りも、憧憬と共に蘇る夕焼け空に響く子供達の笑い声も、愛する貴方が夜景を見ながら呟いてくれる「好きだよ」という甘い囁きも、残念でした、ゼンブお前らの負けだ。
 こんなにも「美しい3音」は、絶対にこの世にない。

 「美しさ」とはなんだ?
 「美しさ」とは原初の「感動」だ。

 空が、
 海が、
 山が、
 風が、
 雨が、
 虹が、
 言語も文化も無い猿と人間の真ん中みたいな太古の生き物ですら、
 きっと「感動」させていた。

 それは絶対不可避の心を殴るメガトンパンチ。

 「感動」が足を生やして、陰山ケイをぶん殴りに来たのだ。
 
 脳味噌がグワングワンと揺れ、鼻血がダバダバと垂れ、地面にへたりこむ。
 陰山は今、黄金色の美猿を阿呆のように口を開けて見上げている。
 それでもまだ、頭の中で声がする。

 やだ。
 わたしはあいつらとちがうもん。
 バカみたいに笑ったり、バカみたいに泣いたり、バカみたいに感動したり。
 しないもん。したくないもん。
 したくないっていうか、できないんだもん。
 だから、いいの。それでいいの。
 それでいいって、きめたんだもん。

 「ホントにそれでいいの?」

 声がした。誰?
 ここでヒント。猿は日本語を喋れません。
 では、誰の声?

 「ホントに感動のない人生でいいの?」

 それは、私の声。

 「私は、ホントはイヤ」

 膝をついた陰山を美猿がゆっくりと抱きしめた。
 黄金色の毛並みがふわりと陰山を優しく包む。
 まるでおひさまの匂いがするタオルでお母さんがくるんでくれたみたい。
 猿の腕が首を回り、頬ずりするように顔を寄せてきた。
 知ってるよ。少女漫画とかでこういう構図があるのは。
 耳元で、世界で一番美しい音が響く。

 『ウ』
 ――あ、
 『キ』
 ――――ああ、
 『イ』
 ――――――ダメだ。

 「ぴいいいいやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 『ゼロ距離ウキイ』は耐えられない。
 ひっくり返って気絶した陰山ケイのその顔は、うまれて初めて活動写真を見た少年のように笑んでいた。

×     ×     ×
 世界が美猿の存在を知るのに、それ程時間はかからなかった。
 Y県O町で起きた異常事態は、幸運にもその元凶を直接見ることのなかった人達によって発見される。
 同時多発的に伝えられた「起きたらめっちゃ人が倒れている」という混乱した通報は、手の込んだ悪戯とは思えなかった。
 「え……戦争起きた?」という文章と共にSNSに投稿された路上に倒れた無数の人々の画像は、爆発的に日本中に拡散された。
 その余りにも荒唐無稽な「現実」は、最初はフェイクを疑われ、次に細菌兵器によるテロ行為、新種の病原菌や異常気象、更には神の裁きまで、様々な要因が予測された。
 だがその中で「美し過ぎる猿が歩いて通った」という正解に到達した者は、誰一人としていなかった。

 当の美猿に関してはO町を真っ二つに横断した後、少しの間姿を消した。
 それは美猿が何かを察知して隠れたとかそういう話では一切なく、シンプルに「真っすぐ進む先にあまり人が住んでいなかった」だけだ。
 再び山へと入り一定のスピードで歩み進む美猿を見かける人間は少なかったし、仮に見かけたとしても泡を噴いて倒れていくのでその情報は途絶えた。

 一方、Y県O町では遅ればせながら警察が出動し救急隊が駆けつけた。
 気を失って目覚めないO町の住民たちは一旦小学校の体育館に集められて並べられ、到着した医師団の検査を受けることになる。その結果は「外傷無し」「脳波に異常なし」「恐らく一時期的なショック症状で気を失っているだけ」。
 つまりこの異常事態の真相は「なんかすごいものを見てみんなすごくビックリした」だけだという。その説明を受け、対策を講じていた警察上層部は混乱した。
 「そんなこと有り得るのか?」「実際そうだと言ってますし」「じゃあ何を見たんだ!? バケモノでも出たか!?」「バケモノでも全員が気を失うかね?」「そもそもバケモノってなんじゃい!」「バケモノはバケモノだろーが!」「ウチの田舎じゃ舞を踊る鬼が」「うるせーバーカ!」
 混乱する情勢が新展開を見せたのは、Y県M町からの通報だった。

 「なんか、めっちゃ人が倒れてるんですけど!?」

 Y県O町と全く同じ現象が発生したY県M町は、O町から山ひとつ挟んだ場所にある小さな町だ。地図を広げて定規で一直線に線を引けばふたつの町はキレイに繋がる。
 対策本部は、この異常事態を引き起こしている「見たらみんながすごくビックリする何か」が実際に存在すると仮定し、更に県内を一直線上に移動しているとするならば、次に到着する場所はY県G町になるだろうと割り出した。
 警察はY県M町からY県G町へと繋がる山道を封鎖することに決める。パトカーを並べた簡易的なバリケードが作られ、更に現場に赴いた警察官には拳銃の使用許可と防弾チョッキの着用が義務付けられた。
 「何かわからないけれど、見ただけで気絶するくらいのすごい何かが向こうから来るかもしれないので、来たらどうにかするように」
 どうしろと言うんだ。
 現場の警察官達はみな思った。しかしどうにかする必要はひとつもなかった。
 以下は現場から届いた無線の書き起こしである。
 
 「ぴぎゃああああああああああああああああああああああああああ!」
 「ぴいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
 「ぴょええええええええええええええええええええええええええ!」
 「さるがっさりゅがああああああああああああああああああああ!」
 「うつくしゅいいいいいいいいいいいいいいいいいいいんんんん!」

 嬌声が飛び交う中、どうにか聞き取れた単語はふたつ。
 「さる」と「うつくしい」。
 これは何かの暗号か。一体何が起きているのか。警察上層部は頭を悩ました。
 だが本当は悩まさなくても全然よかったのだ。
 「さる」が「うつくしい」。
 それ以上のことは、何も起こっていないのだから。

 ちょうど同じ頃、気を失っていたY県O町の住民達が目を覚まし始めた。
 彼らは口々に自分の身に何が起こったのかを語り始めた。
 「美し過ぎる猿を見た」
 以上。
 他には何もない。猿に何かをされた訳でもない。ただ見た。そして気絶した。全員がそう口を揃えた。
 ここに来てようやく、一体この地で何が起きているのかを理解するに至る。

 「見たら気絶するほど美しい猿が移動している」

 そしてすぐにひとつの疑問が浮かぶ。

 理解するに至ったところで、どーすればいいのだ。

 話を聞く限り、猿は人に対し何か行動を起こしてはいない。ただ歩いている。そして見ると気絶する。対策もクソもない話だ。
 それでも何もしない訳にはいかない。まずは本当に「気絶するほど美しい猿」というふざけた存在が実在するのかの確認作業が行われる。直接猿を見た警官達が気絶したことから、この作戦には最新鋭のドローンが使用された。猿の移動経路を割り出し、高性能カメラで空から猿の姿を狙う。しかし彼らの考えは甘かった。
 カメラ越しでも猿の美しさは色褪せなかったのだ。
 「ぴええええ」「ぽぁええええ」「ぷょええええ」
 奇声と共に操縦者は次々と泡を噴いて倒れ、最新鋭ドローンの群れはまるで蚊取り線香で落ちる蚊のようにボトボトと猿の周囲に落下していった。
 更に問題となったのはどうにか撮影に成功した一瞬の映像をサルベージ出来ても「それを確認する手段がない」ということだった。見れば気絶する。だから見れない。至極単純な話だ。
 「バカなこといっちゃいけない。美しいといったって猿でしょう?」そう自信満々に言い放ち、映像の再生ボタンを押した者達が「ぺあええええ」と泡を噴いて次々と倒れていく。その光景は人間の無力さを象徴していた。
 「美しさ」から身を守る方法など、この世にはひとつもない。
 それは素敵なことでも哀しいことでもない、生きとし生けるものの、ただの事実だ。

 そうして次々と集まってくる情報に対し眉根を寄せて真剣に対策を講じ合っていた連中の脳裏に、うっすらと、だが確かな想いとして、あるひとつの結論が浮かんでくる。
 「……これ、ほっとけばいいんじゃないの?」
 猿を見て倒れた者に大きな外傷はない。倒れた衝撃で後頭部を打った者が数名いるだけだ。更に言えば、そもそも猿を見さえしなければ、なんにも起こらないのだ。むしろ車や電車の運転中に猿を見て気絶したことによる二次被害の方が怖いくらいだ。
 だから「ほっておいてもいい」じゃなく、積極的に「ほっておくべき」なのだ。
 
 国からの発表はとてもマヌケなモノになった。

 「Y県に一匹の猿が出現しました。この猿は「美し過ぎる」ため、見ることを禁じます。猿の進行ルートに住んでいる住民は一旦猿が通り過ぎるまで避難すること。また猿を見たがる人が集まる恐れがあるので、猿の進行ルートは警察隊を配備し守ることにします」

 まるでカルガモ親子の引っ越しを守るほのぼのニュースのように、ズラリと警察によるバリケードが組まれ「美し過ぎる猿」を守る態勢が取られた。
 猿の姿を一目見たいと集まる者は予想以上に多く、ただの野次馬から動画のネタにしたい配信者、動物学者の権威から猿に性的興奮を覚える者まで、バリケードのそこかしこで警察との攻防が続いた。暴動寸前の中で警察は叫び続けた。

 「ダメです! あの猿は美し過ぎるので、見せるわけにはいきません!」

 当の美猿は人間達の間でそんな騒動が起きているとは露知らず、急ぐでもなくサボるでもなく、ただただ悠然と歩き続けた。
 Y県を通りすぎ、S県を通り過ぎ、そして日本列島を横断する頃には、新たな季節が巡ってきていた。
×     ×     ×
 盲いた燕は、うまれてはじめて潮の匂いを嗅いでいた。
 絶壁から望む真冬の太平洋は夕焼け色に染まって美しい。だが燕にそれを見る術はない。うっすらと生きている左目に、ぼんやりと赤黒い光の反射が映るだけだ。
 自分が冬を超えられるとは思っていなかった。海を渡ることのできないその体は、ただただ無為に日々を過ごし、やがては寒波にやられ、どことも知れぬ路上で息絶えて、人間どもに「わぁ可哀想」と命の尊さを一時だけ教えて朽ちるだけ。そう覚悟していた。
 しかし、自分はまだ生きている。
 全ては山から降りきた「何か」のお陰だと信じている。
 憎き人間どもを蹂躙し、その土地を我が物顔で闊歩し、曲がることなく一直線に大地を横断してみせた「何か」。夢中になってその姿を追い続ける内に、気づけばこんな所まで来ていた。ここがどこかは知らないが、恐らく自分が来る運命の場所ではなかったことだけは確かだろう。もう一度、潮の匂いを深く吸い込んだ。
 「何か」の旅の道行きを全て知っているのはきっと自分だけだ。
 いつの頃からか、人間どもは「何か」が進む場所から姿を消し始めた。どういうことなのか。単純だ。奴らは逃げたのだ。己の巣を放り出し、「何か」との邂逅を恐れて逃げ出したのだ。
 無人の地となった人間どもの「街」を、悠々と歩み進むその姿は、間違いなく勝者のソレであったし、自然界の覇王のようだった。その姿を称賛するかのように「何か」の上空でぐるぐると回り、その道行きに燕なりの喝采を送り続けた。
 誰も知らない、誰も見ていない王者の行軍。
 それを自分だけが知っている。
 いつしか燕は、この「何か」の旅の結末を自分は絶対に見届けなければならないと思い始めていた。熱く滾る使命感は、真冬の寒波を跳ね除けて、燕をここまで連れてきた。自分はまだ生きている。それは「何か」から零れる奇跡の恩恵を受けているからなのだと、燕は本気で信じていた。
 だが同時に「旅の終わり」が近づいてきている予感もしていた。
 「何か」は寸分違わず一直線にただただ歩き続ける。
 そのまま行けば、当然いつしか、大地は途切れる。
 普通ならば道がなくなれば別の道を行くなり戻るなりするだろう。だがこの覇王の道行きに、そんな「普通」が待っているとはどうしても思えなかった。それは燕の信仰心に近い感情かもしれない。この大地を行く「何か」はきっと、自分達のように、生き延びたり、子を為したり、そういった「普通」とは隔絶した存在なのではないか。だからこそまるで神のようにこの大地を行けるのではないか。
 燕は痩せ細った己が羽根を擦り合わせる。いつからか気力のみで飛んでいたようだ。もう少しで春が来るのはわかっているが、どうにもそこまで持ちそうにない。元より覚悟していたことだ。何よりこの超然的な「何か」の旅の始まりから終わりまでを見届けた後、何をして生きていけばいいかもわからない。
 だから、いい。それはいい。
 それよりも燕が気になることはひとつだけ。

 「何か」は、なんなんだ?

 その姿をずっと見下ろしてきた。勝手にとはいえ、その道行きを一緒に過ごしてきたと信じている。だが燕にとって「何か」は「何か」のままなのだ。
 ぼんやりとしか見えない左目では、なんとなくの姿形までしかわからない。それ程大きくはないだろう。いってしまえば小動物のサイズ。だがそれ故に、何故この「何か」が「何か」としての力を持っているのかが更にわからない。
 その旅の始まりからずっと付き従ってきた唯一の存在である筈なのに、恐らく自分だけが「何か」が「何か」を知らないままなのだ。
 これでは死んでも死にきれない。
 それはそうだろう。
 知りたい。知りたいに決まっているじゃないか。

 K県T岬。
 絵画のようにわかりやすく切り立った絶壁は、絶景としてその土地の観光名所になっていた。
 崖上にはコンクリート造りの大きな建築物がひとつ。古い灯台を模したモニュメントがにょきっと生えており、その最上階に設置された絶壁を見下ろす望遠鏡が一番のウリだ。トイレと簡単な食堂と土産売り場を備えたその施設の壁には、マスコットキャラの「ぜっぺきくん」のイラストが描かれている。「崖に目が生えている」というその姿は、生命とは一体どこに宿るのかという哲学的命題を一瞬考えさせられるアバンギャルドな代物だったが、今はただただ吹き抜ける寒風に耐える笑顔が寂しい。
 職員達の退避が全て済んだその建築物は静まり返り、まるで「何か」の「旅の終わり」を待つ神殿のように聳え立っている。
 周囲にある命はふたつ。
 灯台のモニュメントに止まる盲いた燕。
 そして、燕の視線の先、もうすぐこの場へ現れるだろう「何か」。
 燕はすでに「何か」の進行速度を体感として完全に把握しており、先回りしてこの地へ来ていた。今まで「何か」が一直線に大地に引き続けてきたラインの位置関係も理解しており、もう少ししたらこの視線の先、寸分違わぬ位置から「何か」が現れる筈だ。
 そしていま自分が止まっているこの建築物の横を素通りし、そのまま人間用に立てられた簡易な柵を乗り越えてT岬の突端まで進み、そこで踏みしめる大地を失くすだろう。
 真っ逆さまに海へと落ちる。
 それが「何か」の「旅の終わり」。
 そうなると決まっているわけでもないのに、何故かそうなるとしか思えなかった。
 燕の脳裏には、まるで見てきたかのように「小動物サイズの真っ黒な何か」が足を踏み外し真っ逆さまに落下していくイメージが浮かぶ。あの人間どもを駆逐した覇王が、自然界の使徒が、みじめに落ちていく。
 更にその「姿」も燕にはわからないのだ。どれだけ思い描こうとしてもうすぼんやりとしたシルエットが落ちていくだけにしかならない。己が信仰する存在の明確な絵すら結べない。その事実はここに来て自分の見えない目と、それをうんだ人間どもに再び憎悪を募らせた。
 同時に燕は激しく考える。
 ある時から、ずっと考え続けてきた。答えなど出る筈がない。だがそれでも想わずにはいられないこと。考えて考えて考えて、その間に「結論までの時間」はゆっくりと歩を進め続ける。勝手知ったる等間隔で。一切ブレない同じリズムで。
 そしてついにここまで来てしまった。
 少しでも考える時間を伸ばすため、先回りまでして待っている。
 燕の考えていることはただひとつ。

 ――自分に何かできることはないのだろうか?

 本当に、このまま終わらせていいのだろうか?
 この「何か」の道行きを、神のような進軍を、最も近くで、最も長く、只一人付き添ってきた自分。だからこそ、そんな自分だからこそ、唯一神が到達する「旅の終わり」に横槍を入れる権利を持っていたりはしないだろうか?
 もしかしたら、それこそ自分のうまれた理由かもしれない。
 ここまで生きてきた意味なのかもしれない。
 心の内で少しだけそう想ってみると、甘いチョコレートのような痺れが脳を満たす。体の内でぼっと熱いマグマが灯り、絶壁から吹き上がる凍える風の存在をひとつも感じなくなる。
 だが同時に、己が最も敬愛する存在の「最期」を邪魔すること。その行為への恐怖も理解している。ここまで時間をかけて歩み進めてきた「何か」の完璧な道行きを、自分の軽慮羨望な思い込みで台無しにしてしまうかもしれない。その想像は死よりも恐ろしい。
 この「思い付き」は、誘惑か? それとも真理か?
 答えの出ない命題に頭を悩ませ続けている内に、時間だ。

 「旅の終わり」が歩いてきた。

 熟れきった巨大な柿をひっくり返したようなオレンジ。最後に見た時を思い出せないまあるい夕陽。その真ん中に、小動物サイズの「何か」の影が現れた。
 ゆっくりと歩み、進める。
 その光景を上空ではなく、真正面から見たのは思えば初めてかもしれない。
 敬愛する「何か」。ずっと見てきた「何か」。
 それがゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
 うすぼんやりと膜を張ったようにしか見えない己の左目が、更に滲んだ。

 唐突に、気付いてしまった。

 あの「何か」は自分のことなど知らないのだ。
 自分が勝手にずっと上空から見てきただけなのだ。
 ずっと見てきたから、ずっと知っていたから、
 特別な存在のような気持ちになっていた。
 「何か」にとって、自分なんて「なんでもない」のだ。
 何故なら自分は、「何か」が「何か」すら知らないだから。

 「何か」は己が直進すべき道をただただ素直に歩いていく。
 決められていたかのように建築物の横を通り過ぎる。
 燕はその姿を、偽物の灯台に捕まりながら見下ろしていた。
 いつの間にか「何か」はすでに燕に背を向けていた。
 そのまま柵を乗り越え、向こうへ。
 「旅の終わり」へ。

 燕は急激に、萎えていた。
 別に何も、見届ける必要などないのだ。
 このままあの背中が消えていくのを見送ってしまえばいい。
 そうすれば「何か」と燕は「なんでもないまま」終われてしまう。
 とても簡単なことだった。
 見えない燕は気付いていなかったが、今この崖上に設置された人気の無いがらんどうのような建築物は、夕陽に照らされ、誰も見ていないのに無駄にとっても美しく、死ぬにはいい場所だったのだ。
 今ここに止まっているのも、運命なのかもしれない。

 考えて考えて、考え過ぎた結果、なんにも動けなくなってしまった燕。
 その微かに見える左目だけは、「何か」の背中を追っていた。
 ぼんやりと張った膜の中で、「何か」のシルエットは歪み、滲み、他の背景と混ざってどこが境目かわからなくなった。

 ――ああ、行ってしまったんだ。

 そう思ったと同時に、燕は自分の体が宙に浮かんでいることに気が付いた。
 思うより先に飛んでいた。
 考え過ぎた燕は、考えることを最後に捨てた。
 痩せすぎの羽根を振るう。
 命の限り振るう。
 見届けなくていい?
 そんな筈がない。
 自分がしていいこと?
 自分がしちゃいけないこと?
 知るか。
 どうなろうと知るか!
 んなことより、「旅の終わり」に間にあわなかったどーすんだよ!?

 燕は射出された弾丸のように空に放たれた。
 確実に今、自分は生きてきて一番速い。

 視界が一気に開ける。
 上空からその左目が捉えたのはぼんやりとしたこの世界。
 雑にナイフで掻っ切ったように、大地がふたつに裂けている。
 海の青と、崖の白。
 その崖の白の突端に、世界が裂ける一点と交わるように、「何か」がいた。
 その存在を認識すると同時に燕は急降下する。
 自分がこれから何をするかはわかっちゃいない。
 「そのまま進むと海に落ちちゃいますよ?」
 一瞬考えて笑ってしまった。
 それを伝えたからなんだというんだ。
 そもそも伝わるのか。
 どうやって伝えるんだ。
 「何か」が「何か」もわからないのに。

 知らない知らない知らない。
 自分がすべきことなんてなんにも知らない。
 きっとそこは重要じゃない。
 速く、何より速く、
 急降下する盲いた弾丸。
 ただただ、「何か」の「旅の終わり」に間に合うように。

 次の瞬間、

 空中で、ガシッと弾丸は掴まれた。

 「!?」

 背後から急降下してきた燕を、「何か」の手が掴んだのだ。
 まさか向こうからのアクションがあると思ってもいなかった燕は慌て、「何か」の掌の中で丸めたハンカチのようになりながら必死にもがいた。
 どうなっている?
 何が起きている?
 まさか「何か」は自分が攻撃してきたと勘違いしたのか?
 それは違う!
 そうじゃないんです!
 そこで燕は、自分が本当にしたかったことに気が付いた。
 ただ自分は、伝えたかっただけなんだ。
 「そのまま進むと海に落ちちゃいますよ?」
 違う。
 伝えたかったのはそんなことじゃない。
 
 自分は、貴方を知っています!
 自分は、貴方をずっと見てきたんです!

 それだけでも「何か」に知ってほしかっただけなんだ。

 手の中で必死にもがく燕を、「何か」は見下ろしていた。
 まるで命自体を握りこまれているようだ。
 指の隙間から「何か」を見上げる。首を傾げて覗き込んでくるそのぼやけたシルエットは、巨大な神が山の向こうから覗き込んできているようだった。
 像を結ばない視界の中でこちらを見下ろす「何か」の表情はひとつもわからない。
 それでも、少しだけ燕は安心していた。
 これで「なんでもなく」は無くなれた。
 ずっと見てきた「何か」と繋がれた気がした。
 このままゴミのように握り潰されようが、気まぐれに海に向かって放り捨てられようが、それでもいいとすら思えた。
 
 しかし「何か」の行動は、燕が想像すらしなかったものだった。

 優しく拳を開く。

 驚き飛び立つこともできない燕。

 「何か」は人差し指を伸ばし、ゆっくりと、燕の「両目」をなぞった。

 ピクピクと、死んでいたはずの右瞼の筋肉が動き出す。
 膜を張ったようだった左目の視界が洗われクリアになっていく。
 右瞼がその命を取り戻し、開く。
 光が差し込んだ。
 一瞬ボケた両目のピントを生命がすぐにチューニングする。

 そうして燕の両目は、世界と再会した。

 見える、
 見える……!
 見える見える見える見える見える!!!

 それは奇跡。
 シンプルな奇跡。
 一度は光を失った燕の両目が、再び見え始めた。

 そして最初に燕が見たもの、
 目の前にあったもの、
 それは、「何か」の顔面。
 
 自分がずっと見続けてきた――
 ずっとずっと思い描いてきた――
 「何か」もわからない「何か」――

 その顔を初めて認識して――――

 『――――猿やないかああああああ!!!!!!』

 燕の心の中の関西人が絶叫した。
(燕もその時、初めて自分の心の中に関西人がいることを知った)

 心の中の関西人が喉を引き千切らんと叫ぶ。

 『メチャメチャ猿やないかあああ!!!!』

 『ほんで、』

 『ものごっつ美しいやないかあああああああああああああ!!!!』

 視界いっぱいに映った美猿の顔。
 日本猿とは思えない西洋彫刻のように彫りの深いパーフェクトフェイス。
 その口が動き、言う。

 『ウキイ』

 「ほげええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!」

 鳥類の声帯からは絶対に出ない絶叫をあげながら、燕はショットガンで撃たれたように後方に弾き飛び、美猿の指の隙間からスルリと落ちた。
 落下しながら、燕は全てを理解した。
 「何か」は神じゃない。
 「何か」は覇王じゃない。
 「何か」は人間どもに罰を与える為に遣わされた自然界の使徒なんかじゃない。
 「何か」は自分が想っていたような存在じゃなかった。

 「何か」は猿だ。

 ただの、『美し過ぎる猿』だ。

 しかし燕は失望も絶望もしていなかった。
 そんなどうでもいいことを感じる隙間など、今の燕の脳には存在しない。

 落ちていく燕をチラリとだけ見て、美猿は改めて前を向く。
 広がる海に向かって駆け出していく。
 勢いをつけ――――跳んだ。

 イルカが跳ねるような、背中をくの字に曲げた、美し過ぎるフォームで、美し過ぎる猿が、夕焼け色に染まる空へと飛び込んでいく。

 燕はそれを見上げていた。
 世界で自分だけが見上げていた。
 
 この世で一番美しい光景がそこにあって、それを見た。

 その「事実」を胸いっぱいに広げながら、トプンと、燕は海へと消えた。

×     ×     ×

 世界は、タフだ。ちょっと寂しくなるくらいに。

 あったことは、あったことで。
 終わったことは、終わったことで。
 全ては慣れて、忘れて、「いつも」へと回収されていく。

 『見たら気絶するほど美しい猿が現れて日本を縦断してそのまま消えた』

 そんな意味も意図もわからない「現実」。
 適当な単語をスロットマシーンにぶちこんで並べたようなカオスな出目を叩きつけられても、季節が変わる頃には、世界は余裕で膝の裏でも掻いている。
 
 勿論「意味がわからなすぎる」が故の混乱も多少はあった。
 アレは一体なんだったんだ?
 誰かに納得のいく説明をしてほしい。
 ウソでもバカでもなんでもいい。
 理解できる「理屈」に落とし込んで欲しい。

国民A「あの「美しい猿」騒動はひょっとして国のついた嘘なのでは?」
国民B「確かに。映像も出せないなんておかしい。情報操作が行われている!」
国民C「国は本当のことを言え! 本当は全部嘘だったんだろう!?」
国『……いやぁ、なんのために?』
国民達「…………むぅ」

 気付けば日本全土は馬鹿馬鹿しくなっていた。

 有り得ないことだが、有り得ないだけで意味がない。
 嘘みたいなことだが、嘘みたいなだけで誰ひとり損も得もしていない。
 いつしか「もう一度あのような事態が発生した場合の対策を考えておくべきでは?」などという、マジメぽい意見すら影を潜めていった。当たり前だ。「美し過ぎる猿がまた現れた時にどうするべきか」なんかより、考えなければいけないことは死ぬほどあるのだ。
 温暖化とか。高齢化とか。

 そしてもうひとつ、皆の関心が消えていく要因が存在した。
 それは「美し過ぎる猿を誰もちゃんと見ていない」という事実だ。
 見たとしても一瞬だけ。次の瞬間にはその目には体育館の天井が映っていた。
 記憶にも残せない僅かな時間の現実。それはいつしか「見た。そして倒れた」という起こった事実のみに回収されていき、「それ以上広がりようのないエピソード」に変換され消化されていった。
 全ては夢だか現実だかわからなくなっていき、最後にはどうでもよくなった。
 大体が、そんなどうでもいい事に想いを馳せながらまわせていけるほど「いつも」は甘くない。「いつも」をいつもみたいに遂行していくためには、「美し過ぎる猿の話」なんて割り込む隙はないのだ。「いつも」を舐めるな。

 結局、日本全土を騒がせた『美猿』の存在は皆に忘れ去られていった。
 その姿を真正面から見て、覚えておけるほど対峙した人間など存在しないのだから仕方ない。
 Y県O町の高校に通う、ひとりの女子高生を除いては。

×     ×     ×

 陰山ケイは、春めいてきた陽気の風を鼻先で感じながら、机に頬杖をついて教室の窓から外をぼんやりと眺めていた。
 何かとっても面白いことなど起きていない。
 かといって見ていて飽きるわけでもない。
 雲は流れる。鳥は飛ぶ。高校生は歩き、元気な奴はたまに走る。
 変わらないものは変わらず、変わっているものもちょっとある。
 「いつも」がそこに流れていた。
 それは窓の外だけではない。
 教室の中にも「いつも」達の群れ。

 「そんなん言ってたっけ?」「もー、バカだねぇ」「腹へりまくりなんだが」「今日って何日?」「やっばいかも」「仮定の話だよぅ、仮定の」「ヒィアハハハ」「アレ見た? すっごいキレイだったよね!」
 
 言葉の群れの聞き取れる部分だけが、陰山の耳を通過していく。
 それは自分に関係の無い言葉。だけど誰かには必要な言葉。
 雲が流れて太陽がいい角度で顔を出し、春の陽気を更に感じる為に目を閉じた。
 
 「陰山ァ」

 パチリと目を開く。固まった姿勢のまま驚く。
 流れていく言葉達の中に、自分と関係ある言葉があった気がした。
 それは色分けされたようにクリアに立ち上がり、「聞き違い」という単語が頭に浮かぶ前に第二射が放たれた。

 「陰山ケェイ」

 脳味噌の中を「?」でいっぱいにしながら振り返る。
 アメリカのガムみたいな赤色の髪の毛。それをサイドだけ編み込んで後ろに引っ張り上げている。丈の短いスカートに、学校指定のブレザーは着崩し過ぎてたまたま肩からぶら下がっているだけみたいだ。
 「お、振り向いた。なんかうれし」
 ポケットに手を突っ込みながらケラケラと笑う。
 彼女は、この1年で何度も見かけてはいる同級生だ。正確には見かけているというより目に入ってくるという方が正しい。どれだけ世界を無視しようが、これだけカラフルで存在感があると自然に目が追ってしまう。もしかしたらその「毒っぽい」ビジュアルに陰山の動物的本能が反応し、危険物として覚えていたのかもしれない。
 そして、目の前に立っている彼女を見て陰山自身初めて気付いたのだが、申し訳ないのだけれど、彼女の名前がわからなかった。
 嘘だろうと自分でも驚く。そして同時に思う。これだけ濃い人間の名前すら自分は覚えていない。なのに、自分の名前が同級生に覚えられているかも怪しいなんて、当ったり前の話だったのだ。こっちが覚えていない癖に、自分の名前は世界の誰かに知っておいてほしいなんて、ズルくてセコくてちゃんちゃらおかしい願いだったのだ。
 だけど不思議なこともあるものだ。
 いま目の前に立っているカミノケガム子(※仮名)は、私の名前を知っていた。
 「最近、してないじゃん」
 ガム子が、ツンツンと自分の耳を叩く。
 「ずーっとつけてたのに。壊れたァ?」
 彼女が言っているのは恐らくヘッドホンのことだろう。
 ごつい乳白色のヘッドホン。
 それは今、陰山の鞄の底に眠っている。

 ――あの日、『美猿』と出会って泡を噴いて仰向けにぶっ倒れて気絶した。
 気付いた時には学校の体育館に並べられ、周囲には忙しそうに右へ左へする警官や医療関係者達の姿。どうやら皆が起き始めたタイミングだったらしく、目を覚ました他の「美猿遭遇者」達の間を行ったり来たりでてんてこ舞いという感じだった。
 恐らくその体育館の中でたったひとり「何が起きていたのか」をぼんやりだが理解していた陰山は比較的冷静であり、自身の身体に異常がないかを看護師に確認して貰い、やってきた警官の質問にも慌てることなく答えていた。
 ふと、「いつもと世界が違う」ことに気が付いた。
 広い体育館の中で跳ね回る大量の雑音が、ちゃんと聞こえている。
 遮られることなく耳に入ってきているのだ。
 ハッと両手で顔の横を触る。耳がある場所に、耳があった。
 ――あっ、失くした。
 血の気が引き、一瞬で顔面が青く染まった。看護師が心配そうにどこか痛むのかと顔を覗き込んでくるが、悪いけどそんなことに答えている暇はない。
 「あのっ、もう大丈夫ですか? 大丈夫ですよね!?」
 警官の答えを聞く前に立ちあがって走り出していた。
 体育館を飛び出すともうすっかり辺りは夜。集まったパトカーや救急車の間をぬって走り出した。ここが学校ならばそんなに遠くではない。
 まだその身に何が起きたか気付いていないY県O町の夜を走り、「あの大通り」へと辿り着く。
 止まった世界のようだった大通りは命を吹き返しており、パトカーの赤色灯がわらわらと集まった野次馬達の顔を照らしていた。現場保存のテープを馬跳びみたいに飛び越えると、すぐに警官が止めに来た。
 「忘れ物があるんです!」
 言うと同時にスルリと腕をくぐって走り抜ける。
 「出会った場所」は完璧に覚えていた。目印みたいな大型バスもそのままだ。すぐに飛び込んでいくと、ワオキツネザルみたいに両目を見開いてその場でグルグル回って、月明りが反射するコンクリートの地面を見渡した。
 あった……!
 集まった警官の誰かが蹴っ飛ばしたのか、一旦脇へどかしたのか。道の端に転がっていた。土色の汚れが幾つも走った、だが確かに私のごつい乳白色のヘッドホン。
 見つけた瞬間、嬉しくて、ちょっとその場ジャンプした。

 なんでこんなに必死に探したのだろう?

 人生で一番高い買い物だったから?
 お母さんが嬉しそうにお小遣いを渡してくれたから?
 あの時の電気屋の店員の笑顔が忘れられなかったから?

 ごめんだけど、全部違う。

 両手でヘッドホンを拾い上げる。
 同時に、あの時の「無音」が耳に蘇ってきた気がした。

 『ウキイ』

 耳か、脳か、胸の奥か。
 どこかに残っていた『美し過ぎる3音』の残響が響いた気がした。
 黄金色の両手がこのヘッドホンを外した時のことを鮮明に思い出す。
 しかし、拾い上げたもののどうしようか迷ってしまう。
 いつものように耳にはめる気はしなかった。
 なんか、消えてしまう気がしたから。
 だからそのまま、鞄の奥に丁寧に仕舞い込んだ。

 「――いつ見てもつけてたからさ、なーに聞いてんだろと思ってて」
 カミノケガム子は、人懐っこく笑いながら隣席の椅子を引き摺り寄せて座ると、陰山の机の上で腕を組んでニッと笑った。近い。あと勿論「隣イイ?」とかは無い。
 「音楽好きなん?」
 困る質問だ。
 いつだって音楽を聞いてはいたけれど、好きでもなんでもないからだ。
 「……はぁ、まぁ」
 首を傾げてどうにか答える陰山を、ガム子はパッチリと大きく見開いた目で真正面から見つめてきていた。ここまで近づいて「あ、キレイな子なんだな」と気が付いた。
 陰山の態度を見たガム子は、眉間に皺を寄せると「ん~」と言いながら後頭部をガリガリ掻いた。
 「ひょっとしてぇ、邪魔なカンジ?」
 申し訳なさそうに顔を歪めて、ガム子が自分の鼻先を指差す。
 「だったら大丈夫。前から気になってたんだけど。でも、消えまっす」
 笑いながら目の前でヒラヒラと手を振って立ち上がろうとする。陰山は、何故かすごく慌てた。心臓がどっどと早打つ。思わず立ち上がると口走っていた。

 「逆にッ、アナタの好きなのとか教えてほしいっ」

 一瞬ピタリと止まったガム子の背中。
 振り返ると、ニィィとやりすぎな芝居じみた笑顔を浮かべていた。
 「いーーーよぉ~。ただアタシの「濃いぃー」からねぇ~?」
 楽しそうに自分のスマホをいじり始めた。
 ガム子が立ち去らなかったことに、自分でも理由がわからない安堵のため息を漏らす。見れば彼女は、すでに鼻歌を歌い始めながら高速でスマホの画面を送りまくっていた。
 何を教えてくれる気だろう? アタシの「濃いぃー」から、とまで自己紹介して何が来る? 海外のバンド? アングラなジャンルもよくわからないやつ? 意外やボカロ? ここまで言っておいてすっごいベタな流行りのポップソングが来たらどうしよう?

 なんだか、どれが来たって楽しそうだと思った。

 「なに笑ってんの?」
 きょとんとガム子がこっちを見ていた。
 「え? 私、笑ってた?」
 「うん。キモ」
 直球の「感想」を鼻っ面にぶつけられた。
 「キモって、うるさいなぁ!」
 思わずこちらも直球の「感想」を投げ返していた。
 一瞬目を真ん丸にして驚いたガム子が、顔をくしゃらせて笑った。
 陰山も笑った。

 ふと顔を上げる。
 教室の中にはいつもの「いつも」。
 皆が、喋ったり、寝てたり、スマホいじってたり。
 そこに差し込む春の陽光がほこりまでキラキラと輝かせていて、「――ああ、なんかいいな」と、陰山は思った。

×     ×     ×

 ――鯖が、鯵が、鰤が、鰯が、鱧が、蛸が、烏賊が、亀が、鮫が、蟹が、

 気を失ってぷかぷかと浮かんでいる。

 それはまるで洋上に出来た「道」のようだった。

 アメリカ本土に『スーパークレイジービューティフルモンキー』が上陸するのは、もう少し先の話だ。
                               (了)

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