フライ・ハイ(puzzzle)

 母ちゃんから飯に誘われるなんて実家を離れてからはじめてのことではないだろうか。ここは俺が奢ってやるのが筋だろう。なんとか三流企業にしがみついて食い繋いでいられるのは四流大学まで通わせてもらったお陰だ。女手ひとつ平日の仕事のほかに休日バイトまでしていたことを知っている。少しは洒落た恰好をして出向いたほうがいいかしらとぼさぼさになった頭にキャスケットをのせる。矢吹ジョーを意識したオレンジ色だ。干からびた顔にコエンザイムQ10配合のトータルケア乳液を叩いてもほうれい線は消えない。
「オレンジはないよな」
 矢吹ジョーを意識したのは俺でない。母ちゃんからプレゼントされた時、クラスでは稲中が流行っていた。井沢じゃん。面白半分に何度かかぶったけれど、すぐに飽きて押し入れに放り込んだ。
 就職が決まった時、捨てようか迷った挙句ポケットに詰め込んでそのまま実家を出た。今度はアパートの押し入れに眠ることになる。眠るといってもオレンジの帽子である。その存在感はなかなかなもので、押し入れを開くたびに母ちゃんのことを思い出した。
 矢吹ジョーに寄せていく必要などないはずだが、俺はトレンチコートを羽織って襟を立てる。でも、なんかいいじゃない。オレンジのキャスケットにはやっぱりトレンチコートじゃない。
 口笛を吹きながらどや街でも歩きたい気分だ。チンピラに絡まれたら一戦交えてやってもいい。なんて思うが、ヒトを殴ったことなんて一度もない。最寄り駅までは閑散とした商店街、幸いにチンピラはいない。土佐犬を散歩する爺さん、そして、俺の先に家族連れが歩いていた。母親の隣にはお姉ちゃん、父親の隣には抱っこをせがむ駄々息子。父親はその剛腕でヒョイと駄々を持ち上げてフライ・ハイ、キャッキャと子猿のような声が商店街に響いた。
「家族か」
 俺は漠然とした未来を想像しはじめる。駄々をフライ・ハイする自分を思い描いても、そこへ至る数々の障壁にため息が出る。社会に出て20年が経った。家族を持つことを望んでいるのかと問われれば、イメージができないというのが回答だ。風呂なしアパートが流行るのと同様、手の届く範囲で最高の生活をイメージする。
「イメージ、イメージ、イメージが大切だ♪中身がなくてもイメージがあればいいよ♪」
 古い歌を口ずさめば、剛腕に抱かれた駄々が父親の肩越しに俺を見ていた。
 電車で二時間もかからない里帰り。それでもコロナ禍になってはじめてのことだった。俺の育った頃は手つかずの荒れ地が広がっていたが、すっかりショッピングモールに様変わり。どこでも見るようなファストファッション、インテリア用品、映画館の看板が張り付いていた。
 駅に着いたとメッセージを送れば、聞きなれない生パスタの店を指定された。里帰りはいつだって騒がしいフードコートだった。そのパスタ屋もモールの一画にあるようだ。人気の店なのだろうか行列ができていた。列の中に母ちゃんを見つけることはできず、店の扉を押し開けた。ドアベルが鳴ると店員が振り返る。首を伸ばして母ちゃんを探せば、一人の男が笑顔で手を振った。
「ジョー君ですよね」
 年の頃なら俺と同じくらい。見慣れない笑顔が近寄ってくる。矢吹ジョーのコスプレイヤーとでも思われたろうか?しかし、俺の名前は実際にジョーなのである。同じテーブルに座っていた女性が振り返る。
「ジョー、久しぶり」
 それは随分と若作りに着飾った母ちゃんであった。立ち上がって男と肩を並べる。
「こちら井沢さん。私、再婚することにしたの。別にいいよね」
 突然のことに目を丸める。別にいいけど。
「ジョー君のことは何度も聞いてました。はじめまして井沢です。お父さんと呼んでください」
 井沢は俺に手を差し伸べる。この国で初対面のニンゲンと握手する文化があったろうか。俺はその腕をじっと眺める。それは剛腕か。俺をヒョイと持ち上げフライ・ハイするのだろうか。
「家族か」
 俺は再び漠然とした未来を想像しはじめる。

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