井上さんの失恋のコンポート(紅井りんご)

麻理子は嗚咽した。
人生で三十回目の誕生日を迎える矢先、二年ほど交際していた恋人の陽平から突然別れを告げられたのだ。それもLINEの長文で一方的に。
シンクロするように音も無く降り出した雨が、夜の窓に曲線を描いている。
明日は土曜日。誕生日が平日とぶつかってしまうため、陽平と少し早めにささやかな誕生会をするはずだった。
休日の予定と心の穴が同時にぽっかり空き、資源ごみと化した幾冊ものゼクシィを眺め麻理子は茫然とした。

うまく眠れずに朝を迎える。
カーテンを開けると、昨夜の雨が嘘だったかのような晴天が広がっていた。
もし雨が降っていたなら、どこへも行かず感傷に浸るだけの休日を選んだかもしれないが、そうやって過ごすのがもったいないほどの空だった。
麻理子は寝不足の顔を洗い、陽平が置いていった歯ブラシをごみ箱へ放り投げた。
簡単なメイクをして髪型を整え、陽平とのデートで着るつもりだったワンピースに袖を通すと部屋を飛び出した。
行き先は決まっていない。なんとなく駅のほうへ歩き始める。
よく行く喫茶店の前を通ると、コーヒーの香りが鼻をかすめた。
喫茶「レインボー」。名前も店構えもダサいが、サイフォン式で淹れるコーヒーと、具のたっぷり入ったホットサンドが自慢の店だ。麻理子は急に空腹を覚え、昨夜から何も食べていないことを思い出した。
ドアベルを鳴らしながら店内に入ると他に客はおらず、「いらっしゃい。あれ井上さん、今日はひとり?」と髭のマスターが微笑んだ。
「うん……振られたから当分ひとり」と麻理子は自嘲気味に笑った。
マスターはそれ以上なにも訊かず、「いつものでいい?」と言うとさっそく調理にとりかかった。
窓際のお気に入りの席に座る。先週はこの席で陽平とクリームソーダを飲んでいた。
アイスとソーダが混ざった部分の魅力について語り合い、あの日のふたりは確かに笑っていた。なのに、なぜ。
ハムエッグとツナのホットサンドを食べ終えコーヒーを飲んでいると、「はい、サービス。元気出しな」とデザートらしきものが乗った皿をマスターが運んできた。
「これは?」
「お客さんからもらったいちじくを、コンポートにしてみたんだ。悲しいときには甘いもの、って言うからね」
マスターはそう言って少し照れ笑いすると、すぐにキッチンへ戻っていった。
麻理子は目の前に置かれたそれをじっと見た。穴が開くほど見た。奇跡的に本当に穴が開き、その穴がどんどん広がって、いっそ跡形も無く消えてくれと祈るように見た。
麻理子はコンポートが大の苦手だった。
ぐにゃりとした食感、独特の甘ったるさ、スイーツなのに出汁と醤油で煮込んだ感のある脳が混乱しかねない見た目。いろんな角度から苦手だった。
けれどいま目の前にあるのは、ただのコンポートではない。マスターの優しさが添えられた特別なものだ。食べないことなど出来なかった。
麻理子は銀色の匙でコンポートをすくい、おもむろに口へ運んだ。
すると次の瞬間、全身の血が一気に逆流するような感覚に襲われた。同時に、陽平への愛と憎しみ、自らの不甲斐なさへの自己嫌悪、マスターの優しさへの純粋な感謝とコンポートの不味さへの苛立ち、それらがないまぜになって麻理子の感情を大きく揺さぶった。
こらえきれず麻理子はその場で泣き出した。昨夜とは違い、声をあげてわんわん泣いた。
それまでは事態をよく飲み込めないでいた。突然の別れに心が追いつかなかった。けれどコンポートの不味さが誘因となり、膜がかかったように薄ぼんやりとしていた世界から、麻理子はもとの世界へ引き戻された。はからずも苦手なコンポートが、抑圧された麻理子の感情を開放したのだった。

そんな架空の人物の架空の休日を想像して、わたしは実際の休日の退屈な時間を消費していた。ベッドから見上げた時計は正午を過ぎている。
それにしても、コンポートがあれほどのカタルシスにつながるとは。物語の意外な展開に自分でも驚き、淡い感動を覚えた。
わたしは溢れ出た涙(あくびをしたことによる)を指で拭い、窓の外を見た。架空の休日と同じように晴天が広がっている。
もし雨が降っていたなら、このまま物語の続きを想像する休日を選んだかもしれないが、そうやって過ごすのがもったいないほどの空だった。
わたしは寝過ぎてむくんだ顔を洗い、毛先の広がった歯ブラシをごみ箱へ放り投げた。
簡単なメイクをして髪型を整え、全くする予定のないデートのために買っておいたワンピースに袖を通すと部屋を飛び出した。
行き先は決まっていない。なんとなく駅のほうへ歩き始めた。

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