遡齬(紀野珍)
リビングに入るとサヤカがいた。仰向けでソファに寝そべったまま頭だけ起こして言う。
「おはよう。朝ごはんどうする? パンでも焼こうか?」
んー、と腹をさすりながら胃袋の調子を伺い、とりあえずいいやと返事をする。
「じゃあコーヒーでも淹れる? ていうか、わたしが飲みたい」
はいはい、とキッチンに向かう。電気ケトルでお湯を沸かし、二客のマグカップにドリップバッグのコーヒーを淹れ、うち一客をリビングのテーブルまで運ぶ。
「サンキュー。愛してる」
もう一客をダイニングテーブルに置き、椅子に腰掛ける。カップを手もとに引き寄せると、容器に半分ほど注がれた濃褐色の液体が大きく揺れ、鼻先をくすぐる薫香が一瞬濃さを増す。眠気の残滓がそれで根こそぎ剥がれ落ちたような気がした。スウェットパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、ニュースサイトのチェックを始める。
レースカーテン越しに射し込む陽光で室内は十分に明るい。今日もいい天気になりそうだ。
凪いだ湖面のようなひととき。サヤカの唐突な報告が、そこへ波紋を生じさせる。
「そうそう。母さん、折れてなかったって。さっき電話あった」
〈母さん〉とは、俺にとっての義母のことだろう。意味が分からず、相手の科白を復唱する。お義母さんが、折れてなかった?
「ほら、一昨日、階段踏み外して足捻ったやつよ。右の足首パンパンに腫れて歩けないって言ってたじゃん。今日になっても痛みが引かないから、朝イチで病院に行ったんだって。父さんに連れられて。そしたら捻挫でしたと。骨には異常なかったってさ。なんでか不満そうだったよ」
初耳だった。少なくとも〈足を挫いた〉件は共有済みの情報という話しぶりだが覚えがない。聞いて度忘れするような内容じゃないし、この類の話を適当に聞き流したとも考えにくい。であれば、あとはサヤカの勘違いしかないが、そう断ずるわけにもいかないので、俺はひとまず、ああ、と思い出した風に受け、捻挫で済んでよかったねと当たり障りのない所感を述べておいた。
「ねえ。下手すりゃ転んで頭打ってたかもしれないんだから。用心してほしいわ、ほんと」
それでその話題は打ち止めとなる。顔を付き合わせての会話だったら動揺を悟られていたかもなと胸をなで下ろすも、一方で、しかしどういうわけだろうとの疑念を抱えたまま、手にしていた朝刊を畳んでテーブルの上に放り、スウェットパンツのポケットからスマホを取り出してニュースサイトのチェックを始める。
ふたたび空間を満たす静寂。軽いしわぶきが思いのほか大きく響き、液晶画面から顔を上げる。——と、寝室のドアがぬっと開き、んんんんんと伸びをしながらサヤカがリビングに入ってくる。俺を認めて笑顔を作り、起き抜けの鼻声で言う。
「おはよう。早起きだね」
おはようと返すと、サヤカは危なげな足取りで歩を進め、ソファに腰を落とす。テーブルの上のリモコンを操作してテレビを点け、ついでマグカップを持ち上げて中のものをひと息に飲み干す。
その様子を眺めていた俺もカップを手に取り、少しぬるくなった牛乳を啜る。ほのかな甘味が口中に広がる。
ふーっと息をつき、サヤカはカップを持ったまま立ち上がる。
「おかわり。喉渇いてた」
注ぐよと声を掛けた俺を「いい、いい。自分でやる」と制し、キッチンに移動する。
がばりと冷蔵庫を開ける音。「コウくんはおかわりは?」と問うサヤカに俺はいいやと答え、スウェットパンツのポケットをまさぐる。——おや。スマホがない。おかしいな。寝室からは持って出てきたはずだが。ダイニングテーブルの上にも見当たらないし、さて、どこへやったのか。
——あ。
椅子に座ったまま振り返り、サヤカに訊く。そのへんに俺のスマホない?
「スマホ? えー……ああ、あったあった」
やっぱりそこか、さっき牛乳を入れたとき置き忘れたんだ、などと求められていない説明をし、二杯目を飲み終えたサヤカからスマホを受け取る。
スマホでニュースサイトのチェックを始めてすぐ、「コウくんコウくん」とリビングから声。
「これから吉祥寺に出るんだけどさ、スリッパのほかになんか買ってくるものある?」
スリッパ? と聞き返す。
「コウくん、自分のスリッパにお醤油こぼしてダメにしちゃったじゃん。あれもう捨てたからさ、新しいの探してきてあげる。——あ、そうだ、シャンプーとかの詰め替えってあったっけか。ごめん、ちょっと見てもらえる?」
了解、と洗面所に向かう。洗面台の収納を覗き込みつついまのやり取りを反芻し、記憶を探る。俺がスリッパに醤油をこぼした? そんなことあっただろうか。まるで身に覚えがない。第一、俺はいまもこうしてスリッパを履いてるじゃないか、と足もとを見れば裸足だった。
小走りでリビングに戻り、テーブルの上のスマホを掴んで耳に当てる。
もしもし。お待たせ。サヤカのコンディショナーと俺のシャンプーの詰め替えが切れてるみたい。ほかは大丈夫。
電話の向こうのサヤカが応える。
——ほいほい。わたしのコンディショナーとコウくんのシャンプーね。ありがとう。そんじゃ、ドラッグストアに寄って帰りまーす。スリッパ、すごいかわいいの買ったからお楽しみにー。
通話を終えたスマホをテーブルに置き、ソファに座る。テレビのリモコンに手を伸ばしかけて止め、ソファに両足を載せて仰向けに横たわる。
口も鼻の穴も大きく開いて欠伸をする。大量に空気を吸い、それと同じだけ吐き出した。天井のあちこちに視線をさまよわせながら、さあこれからどうしようと考えていると、寝室のドアがガチャリと音を立て、ゆっくり開く。
寝そべったまま頭を起こしてドアのほうに目を遣ると、サヤカが現れる。俺はこう言う。
おはよう。朝ごはんどうする? パンでも焼こうか?
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