罪(坂上田村麻呂の従兄弟)

あるヒューマノイド(もしくは人間)が、ある人間(もしくはヒューマノイド)を殺しました。

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数年前、人間は、人間のような機能を備えたロボット『ヒューマノイド』の開発に成功した。人間の生活を便利にするために、という目的で開発されたものだった。

しかし人間の誰もが想像できたように、人間に近い機能を持つヒューマノイドは、人間がこれまでやってきた仕事を取って代わるようになり、人間の失業者を大量に出すことになった。一部の人間にとっては、むしろ生活は不便になっていた。

するとヒューマノイドの生産について抗議を行う人間も出てきた。「人間様の仕事を取るな」「ヒューマノイドに権利はない」など、と。しかし一度普及したヒューマノイドのいる人間の世界が簡単に戻ることはなかった。朝食を作る、トイレを掃除する、バスを運転する、ヒューマノイド。人間が起きてから寝るまでのほとんど全てにヒューマノイドは携わっていた。

皮肉にも、ヒューマノイドに対する抗議を行うデモの数増しのために、ヒューマノイドを用いた人間さえいたことは、いかにヒューマノイドが人間の生活に定着してしまっていたかを示す証拠でもあった。

もちろん人間によるヒューマノイドへの抗議の声が、完全に無視されていた訳ではない。ヒューマノイドに関する倫理的問題は、人間によって常に議論されていた。しかし、議論が行われるよりも、ヒューマノイドが開発されるスピードの方が早かった。その異常なスピードは、「人間に近いヒューマノイドが見たい」という単なる人間の好奇心が生んだものだった。人間のための生活に、という当初の目的は失われていて、どれだけ人間に近いヒューマノイドを生み出せるかが、開発者の間のテーマであった。

開発が進むにつれて、よりヒューマノイドは人間らしくなり、人間とヒューマノイドの差は無くなっていった。ヒューマノイドは、乱数によって生成された『擬DNA』となる初期コードとともに誕生する。ここで、ヒューマノイドは人間に近いことだけが求められており、決して人間より高度な機能を(技術的には、お尻からビームを出すヒューマノイドを作ることも可能だったであろうが)持たないことを特筆しておかなければならない。

そしてついに、ヒューマノイドと人間を区別することができないレベルまで技術は進歩していた。正確には、ヒューマノイドが生産されてから、それを後からヒューマノイドであると判別する科学的方法は残されていないということだ。

それは一見恐ろしいことにも見える。自分が人間であることを証明できないのだ。 

しかし、倫理的には、好都合だった。ヒューマノイドと人間の見分けがつかなくなったおかげで、人間がヒューマノイド側の立場を攻撃することもできなければ、逆にヒューマノイド側の立場を擁護することもできないからだ。人間とヒューマノイドの区別ができないのに、差別ができるはずがない。もはや自分が人間かヒューマノイドなのかですら分からないのだから。

次第に人間とヒューマノイドは纏めて『ヒューノ』と呼ばれるようになった。

ヒューノ同士の営みも盛んに行われた。ヒューマノイドと人間だって子供を作れたから。母親がヒューマノイドの場合、擬DNAが与えられたヒューマノイドが誕生する。母親が人間の場合、DNAが与えられた人間が誕生する。

ヒューノの世界は、人間とヒューマノイドが平等に、平和に、生きる世界であった。

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あるヒューノが、あるヒューノを殺しました。

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殺されたヒューノがヒューマノイドか人間であるかは、いささか問題ではない。現に、かつての人間に人権があったように、ヒューノとしてヒューノ権というものがある。例えそのヒューノがヒューマノイドだったとしても、「人間ではないから権利はない」と唱えるヒューノはいない。ヒューノはヒューノとして権利が保障されている。

問題は殺したヒューノの方だ。こんなことを言い出す、弁護士のヒューノが現れたのだ。

「その犯罪者であるヒューノがヒューマノイドである場合、そのヒューノに罪は問われない。なぜなら、そのヒューマノイドは擬DNAという初期コードと、後天的に得られる環境データによって行動したにすぎないから。ヒューマノイドの行動というものは、ヒューマノイド自身によって決めることはできないはずだ。罪の責任は犯罪者ではなく環境に存在すべきだろう。」

それは的を射た主張だった。しかし残念ながら、ヒューマノイドと人間を区別する方法はない。主審のヒューノは終身刑を宣告した。

それからというもの、どうも頭を悩ませるものがある。殺したヒューノが人間でも同じだったのではないかと。

人間は、ずっと人間をモデルとして、ヒューマノイドを開発してきた。

もし人間がヒューマノイドと同じく、DNA(初期コード)と、後天的に得られる経験(環境データ)によって行動しているとしたら?人間が考えることも、感じることも、行動することも、それらに従って機能しているだけにすぎない。自己決定はないのだ。犯罪を犯すことも、言わずもがな、また然りである。

とするならば、罪の責任は、環境に存在すべきではないか。初期データと環境データによる犯罪が、本人の責任というのは理にかなわない。

しかしながら、困ったことに、その「環境」を構成するのも、また別の誰かなのである。

罪の責任はどこに在るというのだろうか。

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私が、彼を殺しました。

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