どうする(紀野珍)

 後ろの席の男が降りることなく新幹線が仙台駅を発車したとき、宗佑はひどく落胆した。どこまで乗るんだ。ひょっとして、函館までいっしょじゃないだろうな。
 トン、トトン、トン、トトン、トントントン、トントントン、トン、トトン、トン、トトン——。
 そしてまもなく、背中をリズミカルに打つ「震動」が再開されて、宗佑は溜息をつく。仙台に入る直前で止んだから、ようやく解放されるものと思ったのに……。
 その異変に気付いたのは上野駅を出てすぐだった。二列シートの窓側、背面テーブルの上にスマホや文庫本、缶コーヒーをセットしてどれにも手を着けず、ぼんやりと窓外を眺めていると、背中がトントンという刺激を感知した。指先でそっと触れられたような、控えめな刺激。
 後ろの乗客の仕業なのは分かった。だから最初は注意喚起なのかと思った。背もたれを倒しすぎているとかで。ただ、にしては叩きかたがあまりに弱々しく、おっつけ前述のリズムをくり返し刻んでいることも分かり、自分に向けられた行為ではないと宗佑は判断した。
 居住まいを正し、背中に意識を集中する。
 トン、トトン、トン、トトン——。
 シートを直に、ではなく、おそらく、おろした背面テーブルを叩いていて、その震動が伝わってきているのだと見当をつけた。では、後ろの誰かは、いったい何をしているのか。ノートPCのタイピング。いや、であればこんなビートが生じるのはおかしい。そう、これはビートだ。聞いている音楽に合わせてテーブルをタップしているとか、きっとそんなところだろう。
 ピンポン球を服の上から当てられた程度のごくごくかすかな刺激ではあったが、いったん捕捉してしまうともう無視はできなかった。
 スマホでSNSをチェックしても、文庫本を開いても、車窓を流れる景色に目を遣っても、背中は微弱なビートを余さず拾う。すべてが「ながら」になっているようで気持ちが悪い。気にしないに限る、と意識させられているのが癪に触る。
 目をつむると刺激が余計クリアに感じられるため、寝てしまうこともできなかった。
 やめてもらうよう言うか。宗佑がそう考えたのは、新幹線が郡山駅を通過したあたりだった。
 無意識の行為だとしたらこちらが指摘するまで止みそうにないし、指摘するなら早いほうがいい。すでにもう遅すぎるくらいだ。
 ただ、そのまえに、どんな人なのか確認させてほしい。念のため。
 隣席の男性にひと声掛けて宗佑は席を立つ。通路に出た際、後ろの座席をちらと見る。
 男性だった。黒のキャップを目深に被り、マスクをしっかり装着しているため人相はほとんど分からない。よって年齢も判然としない。ベージュのスウェットシャツ。一見してやばい人物という印象はない。浅く腰掛けているせいか、両手の位置は見えない。イヤホンなども着けていないようだが……。
 じっくり観察するわけにもいかず、車両前方のトイレへ向かう。尿意はあったので用も足す。座席に戻るときさりげなく黒キャップの男を確認するが、男は最前と同じ姿勢で身じろぎもしない。
 寝たのかな、との希望的観測を抱きつつ宗佑はシートに背を預ける。直後、後ろの男は寝ておらず、休まずリズムを刻み続けていることを知る。
 そのおよそ三〇分後、新幹線は仙台駅に到着するのであった。


 トン、トトン、トン、トトン、トントントン、トントントン、トン、トトン、トン、トトン——。
 リズムがいつまでも同じなのはどういうことだ。同じ曲をリピートで聴いているのか。一〇〇分近くも。飽きもせず。そんな人間がいるか。だいたいなんなんだこのリズムは。どんなジャンルの音楽なんだ。
 水の張られていない水田が隙間なく敷き詰められた平野を見るともなしに見ながら、宗佑は心の裡で毒突いていた。震動を避けようと背もたれから背を浮かせているが、背中と変わらぬ感度で尻が刺激をキャッチしている。どうしても逃れられない。
 終点まであと二時間半。後ろの男も終点まで行くのでは、とふたたび考えて宗佑は絶望し、そして決心した。
 ——注意してやろう。
 行動を起こすなら、いったん冷静にならなければ。いま溜め込んでいる忿懣をぶつけるのはまずい。深呼吸をくり返す。尻から伝わるビートが呼吸とシンクロし、逆上しかける。いかん。落ち着け、落ち着け。
 最後にひとつ大きく息をつき、宗佑は立ち上がる。後ろを向いて座面に膝を突き、背もたれの上から後方を覗き込む格好になる。意を決して口を開く。
「あの、すみませんが——」
 黒キャップの男と目が合う。男はペットボトルのドリンクを飲んでいるところだった。つまり、マスクを外して顔を上げていた。
 その顔とまともに向き合った宗佑は、あまりの驚きに絶句する。
「——えっ。なんで。ちょっと待って。——ジョン・キューッザック?」
 いかにも、そこにいたのはジョン・キューザック(おもな出演作:『マルコヴィッチの穴』『ハイ・フィデリティ』『大統領の執事の涙』など)その人であった。

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