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満月これは土の匂い


一番最初に住んでいた家は玄関に上がり框というものがなかった。扉を開けて、だいたいのところで靴を脱ぐ。人によって玄関の幅は違い、居住面積も人によって違った。土や砂はあがり放題でいつも床はざらざらしていた。

次の家にも土間があったので土は入り放題だった。玄関に段差がつき、居住面積変動の件は解消された。土間には焚きつけ風呂のかまどがあった。土だけではなく煤もすごかった。

近代的な家に住んだのは小学生になった頃だった。建造物を起因とする土や煤は少なくなったが、私は小学生だった。裸足で運動場を走り、転び、土を掘り花を摘み、泥だらけになって家に帰った。虫や水生動物を捕まえて飼った。家にはいつも青くさい、土の匂いがあった。

今私は、鉢植えをひっくり返して土だらけになった床を見ている。フローリングの上には割れた鉢と土と植物が散乱し、忘れていたあの匂いが漂っている。土を集める。手がきしきしする。脂を取られるこの感じ。いくら払っても落ちない黒ずみ。すべすべした合板の床も白いレースのカーテンもガラスのテーブルも、私を含むこの生活の全てをぶちまけられた土くれが嘲笑う。いくら近代的清潔を装ってもばれている。私は土を摂取し土に還るタイプの人間だ。

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自意識前髪で隠す

デスクについてパソコンを立ち上げる。一番に見るのは各部署の出勤状況だ。
派遣の私に部署を越えての仕事があるわけでもないが、見てしまう。営業第一課の安岡さんの欄には今日も「休」の字が出ている。

安岡さんの存在に気づいたのは、ここに仕事で来始めて少し経った頃だった。社員さんたちの話にちょくちょく出てくる名前だったのだ。今日もいねえのか、まだ出てこられないらしいですよ。核心をつく言葉は出ないものの、誰もがいい感情を持ってない事は確かだった。各階の座席表をコピーしていたときにフルネームを知った。安岡佑月。間違いない。こんな名前そうそうない。そういえば、なんかいい会社に入社したって名刺をもらわなかったか。

安岡さんは高校の時の同級生だ。割と仲はよかった方だったと思う。というか、彼女は誰とでも仲良くできる人だった。勉強もできたし、スポーツもできた。ちょっとスカートが長かったけど先生の受けもよかったし、背が高くて美人でおしゃれで人懐こくて、生徒の受けもよかった。つまりパーフェクトだったのだ。私は彼女と出席番号が隣どうしだった。ちょくちょく一緒に行動していた。彼女は私にもとてもフレンドリーだった。人気者とよくセットになっている人ということで、私までみんなからの扱いが違った。私はそれがなんだか嫌だった。ローストチキンの横についたパセリみたいだと思ったし、彼女のナチュラルなパーフェクト臭も鼻についた。根拠のない負い目を一方的に背負って、誰にも気づかれないようにひっそりと私は対抗意識を募らせていた。

卒業した後も、クラスのつながりはなぜか消えなかった。夏には誰かが地元に戻ってきた連絡が入って集まったり遊んだりしていた。私もそこに呼ばれて何度か行った。大企業に就職した彼女が配っていた名刺を貰ったのは、何度目かのその集まりでだったと思う。
私は卒業してからずっと派遣会社の登録社員で、あちこちの会社を転々としていた。長くて半年、短いと二週間とかの勤務をつないで生活していた。彼女の名刺を見て、ああ、この人なら当たり前にこんなとこ勤めちゃうんだな、と思った。華やかな彼女を遠巻きに見ていた。

その名前にこんなところに出会ってしまった。派遣会社の担当の人が、満面の笑顔で持ってきた「長期の仕事」だった。二つ返事で請け負ったその大企業があの名刺に印刷してあった会社だった事は、彼女の名前を見るまで忘れていた。

そのことに気づいてからの私はひたすら息を殺して仕事に専念した。彼女に会いたくなかった。高校時代の謎のプライドが息を吹き返し、今の私を彼女に知られたくないと強く思った。渇望していた長期の仕事が見事に色あせた。
幸い私は高校卒業と同時に母が再婚したので苗字が変わっている。高校の同窓会では前の名字で通していた。名簿や座席表が彼女の目に触れることがあっても気づかれる事はないだろう。私のフロアは5階だ。彼女は2階。業務的にも私は営業職には関わる事はないし、社員さんとの接触もあまりない。目立たず、じっとしてれば大丈夫。お昼休みも極力自席で過ごす。階段とかエレベーターとか、公共の場さえ気をつけていればなんとかなるはずだ。

うつ病で会社に来られなくなった、というのが彼女についての噂だった。たまに出社しても誰とも話さず、机についたきりらしい。仕事も回されない。入社当初はソフトボール部で活躍していたと聞いた。期待の新人だったとも聞いた。

新しい仕事にはそれなりに慣れてきた。同じフロアの人たちとはうまくやっている。総じていい職場だと思う。日々私は彼女を覗き見る。今週はずっと休みだ。なんとなくほっとしているようなこの感覚は、彼女の苦境を安堵しているのではない。と思う。多分。


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