大回文(紀野珍)

「なんだ、用事というのは」
「わざわざすまん。さっそくだが、これを読んでもらえるか」
「いきなり有無を言わさぬ感じだな。まあいい。どれどれ……ふむ、なんてことのない小説のようだが、これがどうした」
「回文だ」
「え?」
「小説でもあるんだが、それは回文なんだ」
「カイブン? カイブンというのはあれか、あの……」
「頭から読んでも尻から読んでも同じ文字列のことだ」
「ああ、そっちの回文か。で、これが回文というのは?」
「そのままの意味だ」
「まさか、これ全部が回文になっていると?」
「そう。それ全部が」
「そんな馬鹿な。待て待て。確認する。——本当だ。後ろから読んでも同じ文章になっている。なんなんだこれは。どこで見付けた」
「僕が作った」
「なんだと。おまえが?」
「そう。外出自粛の期間中に。できてしまった」
「できてしまったって……。昔から突飛なことをする男だと思っていたが、今度のは度外れているな。A4で5枚におよぶ回文とは正気の沙汰じゃない。何文字あるんだこれ」
「記号を除いて3,347文字。全文仮名に開くと3,639文字」
「3,600字超えの回文とはべらぼうだな。——ん? 3,639文字? 回文で文字数が奇数というのはおかしくないか?」
「おかしくもなんともない。〈きつつき〉も〈しんぶんし〉も回文だ」
「——ああ、そうか。半分に折ったとき、真ん中に文字がくるか折目がくるかの違いか」
「そういうことだ」
「しかし、とんでもない代物だぞこれは。ギネス級なんじゃないか」
「だと思う。調べてはいないが」
「調べるまでもないだろう。こんなに長い回文が世にふたつとあるわけがない。何が驚くって、回文で、しかもこれだけの長さで、文章に不自然さがない点だ。言葉遊びにありがちな、口語と文語が入り交じっているとか、辞書にぎりぎり載っている化石みたいな単語が使われているとか、そういう強引さがない」
「長めの散文で回文を作れないか、に挑んだものだからな」
「あまりに自然で、一読してこれが回文と気付くやつはまずいないだろう。そうと知らされた俺がまだ信じきれていないみたいだ。おそらくは人生で初めて、狐につままれたような気分というのを体験している」
「そこまで言ってもらえれば作った甲斐があるというものだ。いちおう付け加えておくと、一般に、回文は濁音、半濁音は清音と同じ扱いにしても許されるんだが、このテキストでは区別している」
「ふむ。〈最上川〉をひっくり返して〈我が身かも〉にはしない、と」
「そう。ただ、拗音と促音——小さい〈や〉〈ゆ〉〈よ〉〈つ〉だな——は大きな文字にしているところもある。さすがにそこまで厳密にはできなかった」
「できなかったのは不可能だからだろう。これで十分だ。前人未踏かつ誰も真似できない所行だよ。奇跡の作品と言っていい。——それで、これをどうするつもりだ」
「そこなんだ。これを世に出す手立てを尋ねたくて、出版社勤務のきみに声を掛けた」
「なるほどな。そういうことなら任せておけ。こういうのに食い付きそうな出版社や雑誌はいくつか当てがあるし、もしかしたらうちでなんとかできるかもしれない。というか、どうにかしてうちで出したい。これ、預かっていいか」
「もちろん」
「そうだな、明後日までにはなにかしら返事ができると思う」
「恩に着る。よろしく頼む。——さて、つぎはきみのお連れを紹介してもらう流れかな」
「ああ、そうそう。こちら、電話で話したボタボ族のシセくんだ」
「ドウモ、ハジメマシテ、シセ、トイイマス」
「シセくん、この男が、幼いころボタボの村に暮らしていて、ボタボ語がペラペラの日本人だ」
「オオ。オアイシタカッタデス」
「まだペラペラいけるかどうか分からんぞ。なにせボタボにいたのは20年も前で、日本に戻ってからボタボ語は一度も使っていない」
「おまえのことだ。今日のために復習してきてくれたんだろう?」
「まあ、いくらかはな」
「できる範囲でいい。シセくんも故郷を出てから3年、こちらに同郷の徒もおらず、ボタボ語で話す機会がまったくなかったそうなんだ」
「だろうな。ボタボ語の使用人口など、僕が向こうにいた当時でも300人もいなかったはずだ」
「だから、おまえのことを教えたときのシセくんのよろこびようったらなかったぞ。おまえに会うのを心待ちにしていたんだ。さあ、話してやってくれ、ボタボ語で」
「うむ。それじゃあ。——イハ・ボンボボ」
「ボンボ! ハイアヤ・ジ・レソムウ・デゴ・ボタボ・レクテツヤ・テシ。ナ・ハアサダンタイテ」
「シニチマロ・ココヲ・ノウアニエ・マオゾタッカ。ナ・ラタツ・ウヨビコロヨ。ノン・クセシノキトタエシオ・ヲトコ?」
「ノエ。マ・オラカ・ダダ・ズハタッカナイ。モンニクヤ・ビンサモデジウトタイニ。ウコムガクボドナウ・コン・ジウヨシノゴ・ボタボ。ナ・ウロダダン。ナ・ウソタッカ」
「ナ・クタツマガ・イカキスナハ・デゴ・ボタボ・ズラオモトノウヨキウド。ニラチ・コンネン・サラカテデヲウヨキコモンクセシイイデイン・ハルキデ。ナ・ハカラクイ・アマウロダンタレ?」
「クテキテシウ……ユシクフニ・メタノ・ウヨキダトコノエ。マ・オイナイ。テッカツモド・チイハゴ・ボタボ・ラカテッドモ・ニンホニ・デエ。マ・モンネ・ウユジニ?」
「ハノタイニ・ボタボ・セニ」
「ナ・ゾンラカ・ワカウドカルケイラ・ペラペ・ダマスデタ・ツカタシイア……」
「オオ。オ。ダンジン・ホニノラ・ペラペ・ガゴ・ボタボ。テイテシ・ラクニラ」
「ムノ・ボタボ・ロコイナサオガコト。オノコンクセシス。マ・イイトセシテシ。マ・メジハモウドダンクセシノク・ゾ・ボタボ・タシ。ナ・ハデワンデ・ラ・チコウソウソアア」
「ナ・カレガ。ナ・ウラモテシイカウヨ・シヲレツオノミキハギツテサムノタクシロヨルキニン・オウモ・オトルキデガジンヘ・ラシカ・ニナハニデ。マ・テッサアナ・ダウソンロ・チモカイ・イテッカズ。アレコイタ・シダデ・チウテシカ・ニウドカ・ウイ・トイ。ナ・レシ・モカルキ・デカント。ナ・デチ・ウラタシカシモシルアガ・テアカツクイハシツ」
「ザヤヤシンパッ・ユシ。ナ・ウソキ・ツイクニノウイ?」
「ウコケオテ・セカマラナト・コウイウソ・ナ・ドホル。ナ・タケカヲ・エコ・ニミキノムンキャシンパツユシテ・クタネズタヲ・テダテスダ・ニヨヲ。レコダンナ・コソダリモツルス・ウドヲ」
「レコデレソ・イイテツイ・トンヒク? サノキ・セキ?」
「ヨダウヨギョシイ! ……ナ・キデネ。マ・モレ・ダツカウトミンジンゼダンブウユ。ジデレコウロダラカダウノ・カフハノタッカ。ナ・キデタッカ。ナ・キデハニツミンゲデ。マ・コソニ・ガスサル・アモロコト・ルイ・テシニジモ」
「ナ・キオオハナ・ダツヨ・ユヤイサイチンオクソトン・オウヨ。ダタウソトイ。ナ・シハニモカミガワ・テシエカリクツヒヲ・ワガミガモムフル・イテシツベクハデトスキテノコガダンル・レ・サルユモテシニイカツ・アジ。ナ・オトン・オイセハン・オクダンハン・オクダハン」
「ブイカニンパッ?」
「イトクオテエワク。ケツ。ウオチイダノモ・ウイトルアガ・イカタック・ツバレ・エラモテツイデ。マ・コソルイテシンケ・イタヲ・ノウイ・トンブキ。ナ・ウヨタレマ。マ・ツニネツキ・テメジハデイセンジ・ハクラソオ。ダイタミイ?
「ナ・イテレキ・ジンシダ。マ・ガレオタレ?」
「サラシト。ウソウロダイ」
「ナ・イズ。マ・ハツヤク・ヅキトンブ・イカガレ・コテシクド・チイデンゼシニリ・マ・アナラカダノモダンドイニカ・イナレクツヲ・ンブイカ……デンブンサノメガ。ナ・イナガサン・イウゴウイウ・ソカトルイテレ・ワカツ・ガゴンタ。ナ・イタミキセカルイテツノ」
「リギリギ?」
「ニョシ」
「ジカトルイ・テッジマリイガ」
「ゴンブト?」
「ゴウ」
「コ。ナ・チガリアニビソ・アバトコダンテイ。ナ・ガサンゼシフニウョシンブデサガナノケダレコモカシデンブイカテック。ロドオガニ」
「ナ・イナガケワル。アトツタフニヨガ・ンブイカイガ」
「ナ・ニナンコウロ・ダイ。ナ・モデマルベラシ・ガイナイハ・テベラシウモオトダカイナ・ヤジン。ナ・ウユキスネギハレコゾダ・ノ・モロ・シイナモデントシ・カシ」
「ダトコウイウ・ソカイ?」
「ガチ」
「ノカルク・ガメリオ・カルクガ・ジモニカ・ナンマキ・トタツオ・ニンブン・ハカウソ・アアダン・ブイカモ・シンブン・シモキツ・ツキイナ・モトンナ・モクシカ・オカイナ……クシカオ」
「ハノウ。イトウ。スキガ。ウスジ。モデン。ブイカ。ジモウ。ユキウ。ユジン。サクヤ」
「ピツロン。ゼンサン・ナ・ダウボラベハトンブイ・カノエゴジク・ヤ。ピツロン。ゼンサジモ・ウユキ・ウユジン・サクヤ。ピツロン」
「ゼンサトクラヒニ・ナ・カンブン・ゼジモナ。ナ・ウユジンヨ・クヤビンサンゼンサ・テイゾノヲ・ウゴキレコ・ダンルアジモン・ナイ。ナ・ヤジタサノ・キ。ウヨシハ・トンブイカ・ブヨオニイマ?」
「……ゴデンヨエ・エナルイテ・レズハドハノドンコ・ガタイテツモ・オトダコ・トオルスヲ。トコ。ナピット」
「ラカシカムテッタ・ツマシテキデ・タツ。マ・シテキデニ・ウユチンカキノク・ユシジツユシ・イガウソガ・エマオト・ダンナ・タックツ・ガクボタケツミ・デコドハレコダン」
「ナ・ンナルイテッ。ナ・ニウヨシンブジ」
「ナ・オモデンヨ・ラカロシウ。ダウト。ンホルスンニクカテ。マ・テマナカバ。ナ・ンソガブンゼレ?」
「ソウ。ソトルイテッ」
「ナ・ニンブイカ・ガブンゼレコカ・サ・マ・ダミイノマ。マ・ノソハノ。ウイトンブイカ・ガレコデ・カンブイカ」
「ノチッソ。アアダトコ・ノツレジモジ。ナ・オモデンヨ・ラカリシモ・デン・ヨラカ」
「マ・タアノアカレ・アハ・ノウイトン・ブイカ・ンブイカ・ダンナンブ・イカ・ハレソガ・ダンルアモ・デツセ・ウヨシエダンブイカ」
「タシウドガレコガ・ダウヨノツセ・ウヨシイ。ナ・ノトコテンナムフレドレ・ドイイア?」
「マ・ナ・ダジンカヌ・サワイヲ・ムウリ。ナ・キイカル・エラモデンヨヲ・レコガダクソッサン」
「マ・ス。ザワザワ。ハノウイト」
「ジウヨダン?」
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