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再魔術化するテクスト──カルトとスピリチュアルの時代の文化批評

第七回 死を分かち合う 倉数茂


0 ファイト・クラブ

 前々回から、現代社会で人と人との関係性・共同性のあり方がどのように変化したかをフィクションの分析を交えて考察しています。
 今回まず取り上げるのは、アメリカの作家チャック・パラニューク(1962ー)の『ファイト・クラブ』(1996)です(注1)。
 普通『ファイト・クラブ』は主役のブラッド・ピットをスターダムに押し上げた映画として知られています。監督はデヴィッド・フィンチャー。1999年の公開時こそ興行成績が振るわなかったものの、ソフト化されてから口コミで話題を呼び、今なおカルト的な人気を誇っています。例えば『JOKER』(トッド・フィリップス、2019)にもその影を見ることができるでしょう。
 しかしチャック・パラニュークによる原作も映画に劣らず興味深いものです。1962年生まれのパラニュークは、まだ作家になる以前の鬱屈していた時期に、たまたま教会で目にしたカードの指示に従って癌患者の自助グループに赴いたそうです。自助グループとは、同じ病や苦しみを抱えたものが集まって、自分の苦しみについて語り合う会ですが、そこでパラニュークも癌を患っていると勘違いしたメンバーから優しく扱われ、大いなる慰めを得たのだといいます(青木耕平『逸脱的ロマンチストの肖像──チャック・パラニュークの現在地』https://www.hayakawabooks.com/n/n32944dfd3cc9)。
 この時の経験が『ファイト・クラブ』には反映されています。語り手の「ぼく」は、癌や結核の複数の自助グループに、当事者を装って連日参加することで、深刻な不眠症をかろうじてやり過ごしている若者です。しかし彼はタイラー・ダーデンという謎めいた魅力的な男と出会い、男たちがアンダーグラウンドで殴り合う「ファイト・クラブ」を組織することでひとたびは生きている実感を取り戻します。つまり『ファイト・クラブ』は生きる意味を感じられない人間が、コミュニティを通して自己回復しようともがく物語なのです。
 しかし一方で『ファイト・クラブ』は極めて問題含みのテクスト/映画でもあります。男たちが殴り合うことで友情を固め、社会システムに反逆していく筋立てが、白人や男性の優位を主張する極右・オルトライトに熱狂的に支持されたからです。アメリカ文学者の青木耕平によれば、『ファイト・クラブ』はこれまでにあらゆる相反する評価を熱烈に捧げられ(投げつけられ)てきました。曰く「1990年代文化の頂点」「ジェネレーションX最高の作品」「マッチョポルノ」「女性嫌悪の塊」「女性嫌悪の悪質性を暴いている」「反資本主義の傑作」「ファシズム礼賛の駄作」「反フェミニズム」「有毒な男性性の危険を見事に描いている」「白人至上主義」「白人至上主義の危険性を訴えている」「とんだ左翼映画」「オルト・ライトの聖典」(注2)……。
 ドイツの批評家K・テーヴェライトは、ドイツ・ワイマール期の男たちが書いた膨大な量の手記、自伝、文学作品を分析することによって、当時の男たちが深刻な自己喪失に苦しんでいたこと、その代償として、自分たちの肉体を「鎧」へと鍛え上げ、それによって自分の内側の「流れるもの」――涙、精液、不安感情――を封じ込めようとしたことを明らかにしました(注3)。左翼勢力を暴力的に排除することに貢献した義勇軍(フライコール)と呼ばれる武装男性結社は、男たちが自分の弱さや苦しみを集団的に抑圧する働きを果たしており、彼らの「妄想」(ファンタジー)の中では、女性は「白い女」すなわち兵士を献身的にケアする看護婦、処女、貞潔な花嫁、と「赤い女」つまり社会主義化した傲慢な女性像に分割されて、「赤い女」には性的な憎悪が向けられたのです。
 お互いに激しく殴り合うことから生まれた絆を基盤に、男だけの秘密結社が拡大していく様を描く『ファイト・クラブ』はテーヴェライトの理論をそのまま体現しているように見えます。典型的にホモソーシャルな男性集団・男性暴力を痛快に描写して賛美する作品であるように読めてしまうのです。とりわけ映画版においては、カリスマ的指導者タイラー・ダーデンを演じるブラッド・ピットがあまりに魅力的であるためにそうした印象が強まります。

(注1)チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』新版、池田真紀子訳、」ハヤカワ文庫、2015年
(注2)「タイラー・ダーデンふたたび、みたび 『ファイト・クラブ2』そして『ファイト・クラブ3』」『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』書肆侃侃房2020
(注3)『男たちの妄想』田村和彦訳、法政大学出版局、1999年

1 アメリカ文学における文明批判

 しかしパラニュークがこうした男性集団による暴力に共感しているのか、それとも批判しているのかを決めつける前に、アメリカ文学の伝統を確認しておく必要があるでしょう。『ファイト・クラブ』は明らかにアメリカ文学に脈々と流れる文明批判の潮流に属しているからです。
 タイラー・ダーデンは執拗に同時代の消費主義・管理社会を批判します。語り手の「ぼく」は自分で集めたブランド品の高級家具によって窒息しそうになっています。ファイト・クラブの面々をテロ行為に駆り立てるのは、現代文明への深刻な憎悪です。タイラーは都甲孝治が文庫版の解説で言うように、『森の生活』(1854)を書いたヘンリー・デイヴィッド・ソロー以来の反文明・反商業主義のヒーローの一人です。
 そもそもアメリカ文学は『ハックルベリー・フィンの冒険』や『白鯨』の時代から、自然の中にこそ自由と解放の約束を夢見てきました。そこで官僚的な政府の支配や商業主義の抑圧は闘うべき敵にほかなりません。アメリカ合衆国は、産業資本主義と消費社会のグローバルなチャンピオンであったからこそ、内部からその社会体制への批判を分泌し続けてきたのです(次代のチャンピオンであるかもしれない中国ではどうなのでしょう)。
 ですからダーデン、あるいはパラニュークはアメリカ文学の鬼子ではなく、正当な後継者です。ダーデンの語る未来のユートピアのイメージは「ロックフェラーセンターの廃墟を囲む湿り気の多い谷間の森でヘラジカを狩る」というものです。そこでは文明は過去の悪夢となり、人々は野生の狩人として生きるのです。
 しかし厄介なのは、こうしたアメリカの伝統である草の根アナキズムが、時に銃や暴力とも結びついてきたことです。それは右翼と左翼、反動と革命の区別が判然としなくなる地帯でもあります。モンタナの田舎で電気も水道もない暮らしを送りながら、合衆国各地に手製の爆弾を送りつけていたユナボマーというテロリストがいますが、彼が発表したマニフェスト(産業社会をパラノイアックに批判するもの)は、当時のカルチュラル・レフトの主張と大差なかったとジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターは皮肉まじりに述べています(注4)。文明批判と大自然に回帰せよという呼びかけはアメリカでは極右と極左に共に見られる思想傾向なのです。
 ファイト・クラブの熱狂的なメンバーも、次のように語り手に主張します。

企業広告は、本当は必要のない自動車や衣服をむやみに欲しがらせた。人は何世代にもわたり、好きでもない仕事に就いて働いてきた。本当は必要のない物品を買うためだ。

想像するがいい。我々がストライキを宣言し、世界の富の再分配が完了するまで、すべての人々が労働を拒否する日を。(注5)

 これらの言葉は、2011年に発生した「ウォール街を占拠せよ」運動の現場で発せられても不自然ではなかったでしょう。つまり『ファイト・クラブ』を単純に右派に帰属させることはできないのですが、同時に男性暴力への麻薬的な陶酔が生き生きと描かれているのも事実なのです。

(注4)『反逆の神話』、ハヤカワノンフィクション文庫、2021年
(注5)kindle版181-182

2 テロのシミュラクル

 とはいえ、本作における暴力の扱いには皮肉と嘲弄の気配が濃厚です。作品後半で、ダーデンは騒乱プロジェクトなるものを始めるのですが、それはテロの高度なパロディというべきものです。ATMに瞬間接着剤を注入して使えなくするといった行為に政治的意味はありません。その役割は、金融システムをおちょくり、馬鹿にすることであって、犯罪のように金銭を目当てにしているわけでも、政治運動のように権力を目指しているわけでもありません。いわばそれは危険な悪戯であり、ジョークであり、破壊工作のシミュラクルです。目的は文明自体をエラーの集積に変え、混沌へと叩き込むこと。その先にヘラジカが廃墟を闊歩する未来が待っているというのがダーデンたちの信念です。
 ファイト・クラブ/騒乱プロジェクトの資金源は、メンバーが手作りで製造する高級石鹸です。しかしその石鹸の材料は、医療廃棄物処理場から盗み出された人間の脂肪です。それらは金持ちにしか受けられない痩身手術で吸引されたものです。つまりダーデンたちは、金持ちに自分の身体から作り出した石鹸を売りつけて稼いでいるのです。なんともグロテスクなエピソードですが、ここから連想されるのは、ナチスが強制収容所の遺体から石鹸を作っていたという事実です。つまり、このエピソードの含意は、現代社会は巨大な絶滅強制収容所であるというものでしょう。もちろんアウシュビッツでは収容者が飢餓のために死んでいったの対し、現代では飽食の果てに脂肪除去手術が行われているのですから強烈なアイロニーです。
 しかしシミュラクルがテロに、すなわち悪ふざけが本当の殺人に転化する地点も存在します。意図的かどうかわからないながら、ダーデンの行った仮装舞踏会での殺人は、騒乱プロジェクトがもはや冗談では済まないものに変わった事実を示しています。
 ファイトクラブ自体が最初はコネクティブな運動として始まり、途中からタイラーを指導者とするファシズム的ミリシア(民兵)へと変容していったように見えます。その原動力は、もはや「集団」が不可能になった時代の、堅く結ばれた男性結社へのノスタルジアでしょう。
 ネタがベタになる、ネット上の悪ふざけが、いつの間にか攻撃的な政治運動になっている。そういう21世紀的状況を、『ファイト・クラブ』は予見し、あらかじめ風刺しています。最初は冗談であり、奇天烈なおふざけだったはずが、参加者が増え、人々の情熱が注ぎ込まれることによって気づけば過激な運動になっている。現代はそうした事例に満ちています。その最も重大な例が、議会襲撃を引き起こしたQアノンです(注6)。

(注6)日本の2ちゃんねるとQアノンを生み出したアメリカの4chan、2ちゃん創始者西村博之とQアノンの正体とも囁かれるジムとロンのワトキンス親子の関係については、清義明「海賊たちのユートピア」『2ちゃん化する世界 匿名掲示板文化と社会運動』(新曜社、2023年)参照。

3 コミュニケーションとしての暴力

 『ファイト・クラブ』に女性や有色人種に対する憎悪は見受けられません。パラニューク自身、ゲイであって性的マイノリティです。しかし、そうした排除への志向は不在だとしても、ホモソーシャルと呼ばれても致し方ないような、暴力で結ばれた男性同士の絆、男性結社的なものへの強い欲望があることは確かです。その後者の要素こそがオルタ・ライトを強く惹きつけたのでしょう。
 パラニュークは執筆のきっかけに当時文学界で注目を浴びていた『ジョイ・ラック・クラブ』(注7)などの女同士のつながりを描いた作品があったことを表明しています。シスター・フッドものが流行しているのに、男性同士のつながりに着目した作品がなかったところから『ファイト・クラブ』を構想したのです。
 この事実は、『ファイト・クラブ』がフェミニズムの衝撃から誕生したメンズ・リブに近い立ち位置にあることを示しています。
 この両義性を象徴するのが、作中に繰り返し現れる傷の描写です。語り手は、全米の街のあちこちで、目の周りの痣や曲がった鼻柱や抜け落ちた歯の隙間を持った男たちに出会います。彼らは皆ファイトクラブのメンバーであり、一眼見るだけでお互いに仲間だと分かるのです。これらの傷痕は二通りのやり方で解釈することが可能です。つまり一つ目は、傷痕は、彼らが痛みと力を恐れない強い意志とたくましい肉体を持っていること、そして忠実なタイラー・ダーデンの兵士であることを示します。彼らは堅い筋肉の鎧を身にまとい、いつでも命を投げ出す覚悟ができています。傷跡はニーチェ的陶酔、男性性の炎、血と暴力の快楽の刻印であり、いわばオルト・ライトの理想です。
 しかし肉体に刻まれた傷跡はまったく異なる解釈も許します。すなわち、男たちを結びつけているのは、力ではなく弱さであり、傷と痛みを抱えているという事実かもしれないのです。彼らは成功を手にできなかった社会的弱者であり、不全感に苦しむものたち、しかし男たちの絆と資本主義的価値観への反逆によって生命を取り戻した人たちです。身体中の傷口は文字通り、彼らが「多孔的」(注8)存在であることを示しています。
 この二つの解釈のどちらかが正解だというつもりはありません。むしろこの両者が交わる場所に『ファイト・クラブ』という作品はあるというべきです。オルト・ライト的解釈とメンズ・リブ的解釈。この二つはいわゆる「弱者男性論」がとりうる方向性をも示しています。
 作中で殴り合う男たちは、相手に勝利しようとか自分の強さを証明しようとしているわけではありません。痛みを通して自分の存在を確認すること、拳を介して相手の存在を実感することを求めているのです。勝敗は問題ではありません。暴力はあくまでコミュニケーションの手段なのです。通常であれば親密な会話や、軽いボディタッチで育まれるべき友愛関係が、血みどろの殴り合いによって形成されています。
 後述しますがフランスの哲学者ジャン・リュック・ナンシーは「無為の共同体」を可能にするのは「言葉」であると論じています。自助グループもまた、お互いの弱さや苦しさを言葉にして空間にとき放つことで成り立つものでした。しかしながらファイト・クラブに集まる男たちは、言葉によって自分を表現することが苦手なのかもしれません。だから拳が言葉の代わりをし、人々をつなぎます。
 以上のように『ファイト・クラブ』は二重の相反する性格を持っています。一方では力で結ばれた男たちの絆というイメージの神話的魔力をあまりに華々しく解き放ってしまったがゆえに、オルタ・ライトというきわめて空想的な(フィクショナルな)政治運動における「神話」の位置を占めてしまったテクスト/映画です。それは男たちの抱える「ファンタジー(妄想)」をめぐるテクストなのですが、そのまま男たちの「ファンタジー」として活用されてしまったのです。
 しかし他方では、傷ついた男たちがなんとか手探りで男たちのコミュニテイを生み出そうとする物語でもあります。その帰結はどうなるのか、物語は答えを宙吊りにしたまま終わります。
 「弱者男性」問題について、現在必要なのは、自分たちは不当に迫害されている、あるいは地位を脅かされていると感じる男たちが抱えている性と生にまつわるファンタジー、権力と屈辱に根付く情動のエコノミーを分析することでしょう。男たちが憎悪に飲み込まれずに生きるためには、まず自らを理解しなければなりません。

(注7)中国系アメリカ人作家エイミ・タンによる1990年の作品。
(注8)小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』、講談社、2021年

4 星野智幸と「奇妙なナショナリズム」

 パラニュークと似たような主題に、異なった角度で切り込んでいるのが星野智幸です。二人の作品の共通点は、まず世界の無意味さ、自分の空虚さ、現代の高度資本主義に対する絶望感が根底にあることと、そこから現代社会を根本から破壊し、書き換えてしまいたいという暴力的で政治的な欲望が噴出することです。
 『ファイト・クラブ』の場合はその欲望は同志愛で結ばれた男性秘密結社へ組織され、遊戯的なテロリズムとして現象します。
 他方、星野の『ロンリー・ハーツ・キラー』(2004)という作品では欲望はよりダイレクトに他人ぐるみの自死へ直結します。人々は悪霊に憑かれた豚の群れの如く死の淵へ狂奔します。この荒れ狂うタナトスをどのように拒否し、いかに鎮めるかが、星野にとっては根源的なテーマです。
 のちに詳しく説明しますが、『ロンリー・ハーツ・キラー』では、井上という人物が他人を殺して自分も死ぬ動画をネットにアップロードしたことから、模倣による自殺が広がります。これは『ファイト・クラブ』で秘密のファイト・クラブが爆発的に増殖していく様子とよく似ています。どちらの場合でも人々は他者の欲望に感染し、模倣し、反復しています。それは現実の我々が、SNSを通して他者の欲望に感染する様子、つまり他者の言葉に賛同し、リツイートし、模倣することで、特定の情動がウイルスのように広がっていく光景をも連想させます。
 星野のアドバンテージは、2000年以降の「ナショナリズム」が政治的討議に限定されず、遥かに曖昧で融通無下であるとはっきり見抜いていた点です。それはもはや単なる政治的イシューではなく日常生活で誰もが直面する嫉妬や欲望の問題なのです。
 『呪文』(2015)では、ありふれた小さな商店街を舞台に、排外主義が横行します。排除の対象になるのは、商店街の個人商店に理不尽な言いがかりをつけるようなモンスタークレーマーなどです。中心にいるのは居酒屋を経営している図領幸吉であり、彼のカリスマ性に惹かれたものたちが松保未来系というグループを結成して、商店街の改革に乗り出します。松保未来系は商店街にやってきた迷惑客を排除する自警団として活躍し、衰退気味だった商店街には高揚した気分が溢れます。
 『呪文』で描かれるのは、すべて小さな商店街内の出来事ですが、同時代の日本社会のミニチュアであることは明らかです。
 図領と松保未来系の面々は、「奇妙なナショナリズム」にとっての重要な争点である、敵である「彼ら」との境界線の引直しを遂行します。その境界確定によって遡及的に「我々」の輪郭が明らかになり、コミュニティが高揚します。松保商店街にはいつになく明るい気分が満ちわたります。
 しかし、やがて松保未来系のメンバーは、異物を排除するだけでは飽き足らなくなり、「クズ道」という理念を抱くようになります。

世の中の大半の人間はクズなんだよ。あんたや我々みたいな。何の役にも立たないし、使える人間を目指せばただただ人を不快にして苛立たせるだけ。あんたを本当に必要だと感じてくれる人もいない。どれだけ無意味な存在か、もう私が説明するまでもないよな。(注9)

目を逸らさないで、心の声に耳を傾けてほしい。自分はクズであり、自ら死んで養分になるという役割があるのだと自覚してほしい。これは、『クズは死ね』というような後ろ向きの姿勢とはまったく違う。指名と役割に誇りを持った、いわば『クズ道とは死ぬことと見つけたり』ってところかな。(注10)

 この「クズ道」を、それまで他者に向けられていた攻撃衝動が自分自身に向かったものだと考えることもできるでしょう。おぞましい「彼ら」を排除することで「我々」が明瞭な輪郭を取り戻すように、現実では何者にもなれない惨めな「自分」を暴力的に消滅させることで、輝かしい高位の自己が確保されるのです。『悪霊』(ドストエフスキー)キリーロフの自殺哲学を思わせる奇怪な論理ですが、肝心なのは、星野がこの「クズ道」に宿るエクスタシーをきっちり描いている点です。クズの自覚をもって、自分自身を抹殺することで、世の人々の覚醒を促し、衰退した日本を変えていく。ここには三島由紀夫『憂国』などにも通じるような、タナトスと政治的テロリズムとエロスの三位一体があります。
 星野作品でしばしば重要な意味を持つのが、登場人物たちの己れに向けられた否定感情です。彼ら――男性であることが多いので「彼ら」とします――は自分がダメ人間だ、空っぽだ、価値がない、と言い募り、さらに過剰な自己否定は、しばしばくるりと他者の否定へと反転します。自己否定(自己嗜虐)には嗜癖化しやすいところがあり、それにアディクトしてしまう男たちの際どさを星野は繰り返し描いています。
 現代の世界では、自分を「弱者」と自己規定する若年男性の「拡大自殺」(突発的に不特定多数を殺して自分も死んでしまうこと)が大きな問題になっていますが、そうした事件の首謀者はしばしば犯行直前に、ネットなどに宣言文めいたものを書き残すことが知られています(注11)。稚拙で自己本位なものですが、彼らにとって他人を巻き込む自殺は政治的行為――不平等で腐敗した世界に対する一撃――でもあるのです。
 星野作品は、現代における超弩級の難題としての、排外主義と自殺的暴力の周囲を旋回しています。
 そこにあるのは、自分が帰属できるコミュニティが欲しいという切実な欲望と命を投げ出してまで自分が何ものかであることを証明したいという願いです。他者と己れに対する自殺的な暴力はこの願いから生まれます。そして、標準的な合理主義と個人主義、すなわちリベラリズムはこれに対して有効な対処策を持ちません。なぜなら、この願いはある意味、人間としてきわめて自然で当然のものだからです。

(注9)『呪文』kindle版139ページ
(注10)同140ページ
(注11)大治朋子『歪んだ正義 「普通の人」がなぜ過激化するのか』毎日新聞出版、2020年

5 ロンリーハーツ・キラー

 この自殺的暴力の問題がより大掛かりに探求されるのが2004年の『ロンリー・ハーツ・キラー』です。『ロンリー・ハーツ・キラー』は拡大感染していく自死をめぐる物語です。
 作品は「静かの海」「心中時代」「笑点峠」という三部からなります。それぞれ語り手が違い、一部が「井上」、二部が「いろは」、三部が「モクレン」です。
 「静かの海」は、「オカミ」が突然亡くなった後の世の中の様子から始まります。「オカミ」は天皇の言い換えです。語り手の井上は、ビデオで世の中を撮って回っては、自分のネット放送局で配信している若者です。人々に人気のあったオカミが亡くなったことで、世の中には漠然とした喪失感が漂っています。中には生きる意欲を失い「カミ隠し」と呼ばれる仮死状態に陥ってしまうものまで出てきます。
 井上の友人のいろはは、恋人のミコトを井上に引き合わせます。ミコトは「カミ隠し」の経験を経て、一つの啓示にたどり着いたところでした。それは「この世こそ、あの世。あなたも死になさい」というものでした。最初は強い反発を感じる井上ですが、やがて彼自身、ミコトからのメッセージに感応してしまいます。翌日彼は、これから誰かを殺して自分も死ぬ決意を長文のテキストにしたため(それがこの第一部ということになっています)、ネットにアップロードした上で、ミコトを殺して死んでしまいます。
 なぜ井上は突如として死のうと思い立ったのか? 井上はこう告白します。

はっきり言って、俺は社会に参加して生きている実感がない。いまはこうして撮った映像の一部を売ってかつかつの生活を送っているが、死なないのは東京練馬の自宅に暮らしているからだ。俺を生かしているのは自分じゃなくて、この社会の余力だ。どうやって貯めたのかは知らないが、社会がかつて蓄えたカネとエネルギーを食いつぶして、俺は生かされている。(注12)

 苦痛や欠乏がないのが、苦痛、といった逆説がここにはあります。と同時に、日本社会は縮小しており、ジリジリと自分も落下していっているという感覚もあります。

俺は自分が空っぽで、表面だけでできているハリボテで、その表面に開いている目と耳という穴から、音と光だけを空っぽの内部に投影している、存在が映画館のような人間なのだ。というか、その光と音を記録しているビデオカメラなのだ。そう、俺はビデオカメラと瓜二つなのである。(注13)

 いろはの恋人であるミコトも似たような不全感を抱えています。初めて井上と顔を合わせたとき、ミコトは子どもを作る意義がわからないことを語ります。

いろはとはいつもこの話でつまづく。一緒に暮らすようになったら、子どもを持つかどうか(…)俺は世界をリアルなものへと変えるために世代が続くことが必要だと思っていたけど、それは理屈で考えての結論であって、個人的な感情としては自分が子どもを持つということがよくわからない。むろん、そんなもの実際に親になってみないとわかりっこないんだろうけど、ぼくの言いたいのはそういうことじゃなくて、親っていうのは必要なんだろうか、ぼくが子を持って親となるのに意味なんてあるのか、ってことなんだよね。だって、俺自身に生きてる実感がないのに、子どもなんかありえる?ぼくには自分の後ろに未来が連続していくことが信じがたい。(注14)

 生きていない、社会に参画できていない、という感覚。自分が実在しているという感覚の希薄さ。これは、バブル崩壊以降の長期不況の中で力を奪われ、社会への参画機会を持てなかった若い世代(ロスジェネ世代)の感覚としてかなり妥当なものでもあると思います。日本の沈下と連動して自分自身の未来も年ごとに薄暗く閉ざされていく。政治や社会運動もどこか遠い無縁のことがらにしか感じられない。強いていえば、ネットの世界だけがリアルであり、生き生きとした言葉を交わせる場所である。こうした感覚を抱くものは、2000年前後には珍しくなかったろうというのが筆者の印象です。みことや井上はそうした時代的「気分」を体現する寓意的人物です。
 第二部は、一部の5年後に書かれたいろはによる手記です。5年前、井上が発表した、ミコトをナイフで刺し殺してから自分自身の頸動脈を割いて自死するまでの自撮り映像は、ネットで爆発的に拡散され、そこから無理心中の連鎖が始まっていたのです。井上の動画とテクストは、閲覧禁止となり削除されるものの、心中の嵐はとどまることなく、通り魔的な無差別殺人の体を帯びていきます。さらに殺されると感じた瞬間に相手を殺すことも「無差別正当防衛」として認められるようになります。人と人が無関係かつ無目的に殺し合う社会、それは井上がこの世の向こうに幻視した「リアルで自然で本物の」世界とも違うものでした。
 いろはは、人里離れた山中にある友人モクレンの山小屋の管理人として、死の吹き荒ぶ世の中を絶望的な気持ちで見下ろしています。人々はいつ殺されるかわからないと疑心暗鬼になり、ますます緊張し、孤立感を高めていきます。
 そのとき、モクレンが「私は殺しません」と題した文章を発表したことからさらにいろはとモクレンはマスコミからの好奇の目に晒されることになります。

(注12)『ロンリー・ハーツ・キラー』(中公文庫、2007年)17ページ
(注13)同19ページ
(注14)同63ページ

6 ビデオカメラ、あるいは受容体としての主体

 「この世こそ、あの世。あなたも死になさい」というミコトの言葉に刺激された井上は、死ぬ直前に黄砂の吹き荒ぶ外をビデオカメラを持って歩き回ります。気候変動のせいで、年に何度か、目も開けられないほどの黄砂の嵐に見舞われるようになっているのです。色彩の濃淡のなくなった、砂嵐の向こうで太陽だけがギラギラ輝いている光景を見て、井上は世界の真実の姿を直観します。それは地上はすでに死後の世界であり、月面であり、まだ生きているものたちは、死を求めて当然なのだ、というものでした。井上は死を決意し、しかも誰か一人を道連れにすることを宣言します。彼は自分が見た光景とテクストをネットにアップロードし、自分の死後にそれらを拡散してくれるよう呼びかけます。
 星野作品の主要人物はしばしば自分の生きる意味について真剣すぎるほど思い詰める求道的な人間です。井上もミコトも自分の空虚さについて考えつめ、もっとリアルな何かがあるはずだと追い求め、その果てに形而上的な「真理」を発見してしまいます。それはほとんど宗教的な覚醒の構造だと言っていいでしょう。
 井上は自分自身をビデオカメラそのものとほとんど同一化しています。〈わたし〉は感性的データを受け入れる空虚な形式でしかなく、他者とも社会とも関わり合えず、どこまでも距離を置いて見つめるだけの主観性なのです(注15)。
 作中に同じ映像専門学校の同級生として、井上といろはが共同で製作した「合わせビデオ」という作品が登場します。それはお互いにカメラを構えて向かい合い見つめ合い、ひたすら相手を罵り続けるというものでした。二人は対話をしているはずなのに、実は延々とモノローグを続けているだけ。言葉を交わしても、それは相互に無関係な二つの主観性に過ぎない。だから他人と「分かり合える」ことなどないのだという事実を自虐的にたえず自分に突きつけるのが「合わせビデオ」という作品です。
 ハイデガーはデカルト、カント以降の哲学を「主観性の形而上学」と呼び、それが存在者の「存在」を捉え損ねていると批判します。なぜなら近代の思惟の形式は、この世界を現前するもの、主観(デカルト的なコギト)が表象する(=前に立てる)ものとして把握するからです。現前している何かとは、すなわち、目に見えるもの、計算可能なもの、です。数的に操作可能な存在者の集合として世界を捉えることで、近代的な科学と技術が飛躍的に発展します。
 星野的人物の苦悩は、このようなハイデガーの問題意識ともどこか似ています。その意味で、この苦悩は近代の本質としての〈ニヒリズム〉に根を下ろしています。
 星野作品の人物は、自分が空疎なカメラでしかなく、世界がただそこにあるものとしか感じられないことに苦しんでいます。そんな彼らに一時の救済を与えるのは、高度な身体技能への一心の没入です。『呪文』の主人公霧生は、メキシコのサンドイッチであるトルタを職人芸で制作しているときにだけ、自分が存在していると感じます。距離をおいて外界を見つめる主観性ではなく、一連の身体動作がリズミカルに連動し、生理的な流れそのものになるとき、自己は消え、実在が甦るのです。
 身体性への没入が不可能なとき、彼らは、より強固な実在として〈死〉を見出します。死こそが真実の実在であり、わたし自身でもあるのだと彼らは跳躍します。
 イスラム過激派による自爆テロからインセルや白人至上主義者による銃の乱射事件まで現代の自殺型テロを研究している学者たちは、犯人が犯行に至るまでにはいくつかの心理的プロセスを経ると指摘しています。彼らは自分の個人的苦悩の原因として世界の邪悪さを発見し、自分たちは善と悪との宇宙的戦い(コスミック・ウォー)[16]に参加していると信じるようになります。視野はトンネルのように狭くなり、自己の世界観に合致する情報だけに反応し、異なるものの見方は受け入れられなくなります。自分を英雄や戦士のように感じ、行為を犯す前に、自分たちの行為は犯罪ではなく聖戦なのだという主張をネットなどに書き残します。彼らにとってはテロは究極の自己実現です。他者を殺して自分も死ぬ行為によって無価値だった自分が燦然と輝くのだと夢想します(注17)。
 『ロンリー・ハーツ・キラー』の井上や、『呪文』の松保未来系の面々を捉えているのはこのような宗教的−テロリズム的覚醒の構造です。
 なぜ星野的人物は死への欲望を育ててしまうのか、なぜそれはウイルスのように伝染するのか。それを解くことは現代のテロリズムについて考えることと等しいでしょう。タナトスと模倣と反復の絡み合い、これが星野作品が抱える根源的な謎です。

(注15)先進国の中で日本の若者は、政治参加意識の低調さ、自分の力で社会を変えられるという感覚の低さで際立っています。内閣府ホームページ・平成25年度「日本を含めた7カ国の満13~29歳の若者を対象とした意識調査」(https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/tokushu.html)。日本で暮らす限り、自分が社会的主体であるという感覚を持つことは難しく、学校や職場で与えられるストレスはただ受け身でやり過ごし、テレビやインターネットから流れてくるコンテンツを受動的に消費することで自己回復するしかないのだという諦念が一般化しています。
(注16)マーク・ユルゲンスマイヤー『グローバル時代の宗教とテロリズム』立花良司監訳、古賀林幸・櫻井元雄訳、明石書店、2003年
(注17)大治朋子『歪んだ正義』

7 多数の、無名の、「物語」を持たない死

 通常、人は死を悼むことで、共同体を紡ぎなおします。重要な人物の死は、共同体にひび割れを生じさせますが、残されたものたちは集まって、死者について語り、口にされた死者への思いによって欠落を充填します。
 悼むとは死者を物語という繭で包み直すことです。悲しみの言葉、死者の思い出、死者の生涯の物語は、死と不在という傷を包み込みます。これは人間が言葉を持って以来、何万年も繰り返してきたことです。
 国家も、イエも、中心には死者がいます。死者がいなければ、死者の想い出がなければ、我々はおそらく共同体を維持することはできません。死者を悼むことでその周りに共同体が生まれるのです。
 死者は、時間的にも空間的にも人々をつなぎあわせ、連続体を作る働きをするものです。だから死者は物語を、語られることを、追悼されることを求めます。追悼は、個人だけではなく、共同体によって共有された様式でなければなりません。
 その様式が壊れかけているという危機感のもと、敗戦を迎えた柳田國男は『先祖の話』を書きました。そこでは日本人がいかに死者を祀ってきたかが延々と語られます。
 しかし現代の日本人は、肉親の魂が近くの山のてっぺんまで昇って、そこから子孫たちを見下ろしているなどという「物語」を信じることはできません。我々はもはやそうした前近代的な世界を生きていないからです。
 星野智幸の作品でも、死は共同体を紡ぐ機能を失っており、純粋な破壊行為としてしか機能しません。死は何も生み出さない。死はただ生の連続性とつながりを断ち切り、人々を月の世界を舞う砂粒へと分断します。悲しみや思い出や懐かしさを産出しない死が人と人を結びつけることはありません。それで良いのだ、と井上は言うでしょう。生にも死にも意味などなく、人生は何も映っていないテレビモニターの砂嵐のようなものであり、その圧倒的な空無さを引き受けることこそ真理なのだ、と。
 美術研究家の菅香子は、第二次大戦を機に、現代美術における「肖像」のあり方が変わったといいます(注18)。より具体的にはナチスの強制収容所を分水嶺にして、美術は何かを「表象」(再現=represent)するものから、「露呈=exposure」するものに変化したのだ、というのが菅香子の見立てです。
 古代から造形芸術は、死者たち、あるいは去り行くものたちの影像を記録し、この世にとどめおくことを大きな使命としていました。大プリニウスによれば、絵画の起源は、ある若い娘が旅立つ恋人の壁に映った影をなぞったところから始まります。絵画や彫像の役割は、不在者をre-present(表象・再現)することでした。
 肖像は死者を記念し、記憶に留めます。管は、古代ローマで造られたイマギネス――イメージという言葉の起源であるイマーゴの複数形――と呼ばれた彫像を例に、それは死者の力や権力を誇示するものでもあったと論じています。イマギネスはローマの名家だけが所有を許される先祖の像であり、一族の葬儀の際に持ち出され、先祖を代表して儀礼に立ち会いました。
 しかし、表象が死者を代表し、同時に一族や王権を支えるという、イメージと主体の間にあった蜜月状態は20世紀に成り立たなくなります。第二次大戦後に描かれる肖像は、むしろ主体を表象せず、人間の無惨な身体そのものを露呈(exposure)させます。
 菅がその典型例として挙げるのが、フランス人画家ジャン・フォートリエが、1942年から1944年にかけて制作した「人質」シリーズです。フォートリエはレジスタンスに関わっており、ナチスからの潜伏生活を送りながら、石膏や絵の具を厚く塗り込めた歪んだ「顔」の連作を描きました。その「顔」は具象でありながら抽象に接近し、銃弾を受けた壁のような物質性を露わにしています。この連作には、フォートリエの潜伏先の近くで処刑されたレジスタンス活動家の顔が混じっていると言われていましたが、管は迫害されたユダヤ人も加わっているかもしれないと言います。

古代ローマのイマギネスは、そのモデルとなった人の持つ力や権利を示したものでもあった。つまり、その人の力や権利の表象としてイマギネスが作製され展示されたのである。これに対して《人質》に表れる人々は、むしろ力や権利を剥奪された人々である。明確なかたちを取ることなく、色彩の厚みに埋められるようにして描かれた「顔」は、彼らの力や権利の剥奪を示している。古代ローマのイマギネスが力を表象していたのに対して、フォートリエの《人質》では、表象されえないものが表象されている。イマギネスが主体としての表象だとしたら、《人質》はもはや人が主体として成り立ちえないことの露呈なのだ。(…)現代の人間の肖像は、表象というよりは、単なる「エクスポジション」つまりは露呈である。(注19)

 『ロンリー・ハーツ・キラー』でビデオ映像として現象するのは、このような意味を欠落させた死です。井上はあえて意図的に、自死と殺人をそのようにカメラの前に投げ出してみせたのです。そこでは、一人一人に固有の生は不在です。だからこそ、井上たちの死は、誰のものでもある匿名の死として、模倣され、反復されなければならなかった。それは物語を欠いた死の露呈、ただ単にビデオのメモリに電子データとして残された無機質な死です。

(注18)『共同体のかたち イメージと人々の存在をめぐって』、講談社選書メチエ、2017年
(注19)同128ページ

8 ネット心中

 『ロンリー・ハーツ・キラー』の中に、若い男がほとんど面識もない人物に一緒に死んでくれと懇願する場面があります。一緒に死んでくれれば、少なくともその瞬間は孤独ではなくなる、というのがその言い分です。「あなたは疲れている、静かに休もう、死んだ後まで一緒にいてくれとは言わない、それぞれ別の死後へ進もう、理解さえしてくれれば孤独ではなく終われる」(注20)。
 まるでネット心中の理屈のようです。ネット心中もまた2000年代前半に頻発し、人々に鈍い衝撃を与えた出来事でした。
 社会学者の貞包英之の論文「私的な死、恣意的な死――ネット自殺の社会学的考察――」(注21)によれば、この時期、未遂も含め69件、のべ204人(男性124人、女性80人)がこの形での自殺を実行したと言います。そこには共通するスタイルがあり、それは、若い世代(20代が52.6%、30代前半が22.1%)がネットの掲示板や自殺サイトで知り合い、アパートの一室や車の中で練炭を焚いて死ぬ、というものでした。さらにこの自殺にははっきりとした二つの波があり、第一波は2003年3月に始まり7月に収束し、第二波は2004年10月に始まり2005年8月に終わるものでした。報道に刺激されて同じかたちの自殺が、あたかも感染病の流行が広がるように繰り返されていたのです。
 ネット心中を実行した人たちの心のうちで何が起きていたのかは、やはりよくわかりません。しかし、報道やルポを読むかぎり、参加者はどこかひどくあっけなく死を選んでいるように感じてしまいます(それだけ疲れ果てていたのかもしれませんが)。貞包はネット自殺では、個人の自律を保証する根拠としての「死の機能」が縮小されていると言います。言い換えると、死が生の全体を逆照射するような強い否定性を失っているということです。もちろん、社会に対する抗議や怒りといったものも表象しない。反社会的ですらない、脱社会的な死。
 また参加者たちはお互いの生い立ちや経緯にほとんど関心を向けていません。ひとつの練炭を囲んでいながら、みなたまたま吹き寄せられた他人同士のままです。ある意味、誰でもよかった。一人で死んでいく寂しさを埋めてくれるなら。死も、他者も、リアルな具体性と身体性を失っていて生きながら亡霊のようです。
 井上が到達したのもこれによく似た世界でした。「この世こそあの世」。彼はもう死と生を区別する必要はない(だから死んでも殺してもいい)と考えたわけです。生者はすでに死者である。しかしだからこそ逆に死者もまた充分に死にきれないままこの世に残存することになります。
 死者は死ねないまま、残りつづけています。端的にビデオ映像というかたちで。それは喪が不可能であるということです。なぜなら喪の作業とは、肉体的に死んだ死者を象徴のレベルで葬り直し、そのことで共同体の一部にする行為だからです。喪が機能しないとき、死者は死んだまま生者に取り憑き、生者の方は自分はすでに死んでいると感じるようになります。どうすれば生と死を分離し、生者として死者を悼みながら生きていくことができるのか。

(注20)『ロンリー・ハーツ・キラー』237ページ
(注21)『社会学評論』58巻第4号、日本社会学会発行

9 無為の共同体

 我々はもはや父祖たちや偉大な国家創建者、国を護って死んでいったものたち、そうした死者たちの功績を語り継ぎ、共同体を持続させていくという営為に素朴に安住することはできません。
 しかし死を物語と関わりのない無意味とみなし、生とは無関係なものと切り捨てれば切り捨てるほど、生そのものは痩せ細り、「自分の後ろに未来が連続していく」感覚は消えていきます。そこでいわば死に物狂いの一発逆転として、自死に投企してみせたのが井上や松保未来系の面々でした。
 しかしながら死と共同体に関する、あるいは死と物語の関係についての別のモデルは構想できないのでしょうか。
 フランスの現代思想は、1983年というかなり早い時期に、共同体を思考する枠組みの大幅な変更を提起していました。きっかけとなったのは哲学者ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』です。それに呼応して高度に哲学的な文芸批評を書き続けてきたモーリス・ブランショによる『あかしえぬ共同体』が書かれ、さらにジョルジュ・アガンベン、アルフォンソ・リンギス、ロベルト・エスポジトらの著作が続々と発表され、共同体論のブームが訪れました。
 この時期にこれらの著作が書かれた背景には、社会主義の失墜があったとナンシー訳者の西谷修はいいます。すでにソビエトは知識人の希望ではありえず、かといって剥き出しの資本主義にも同調できない時期にこれらは発表されました。
 しかし、それ以外にも時代的な背景はあったと考えるべきでしょう。
 ブランショやナンシーの議論は、ハイデガーに依拠し、いかにもフランス現代思想的な曖昧で思わせぶりな文体で書かれているために気づきにくいのですが、国家や共同体をめぐって社会が直面した変化を反映しているとみなせます。つまり、移民や異なる宗教をどのように受け入れるのか、共同体はどこまで異質な他者を包摂することができるのか、という問いかけが喫緊の問題として迫ってきたということです。労働や家計や消費によって緊密に結びつけられた集団とは違う、むしろ多様で異質性を含んだコミュニティが求められるようになっていたのです。
 ナンシーやブランショは、共同体は単一の理念や本質や目標を持つべきではないと主張します。それは何かを「生産」してもいけない。だから、何も産み出さない=無為であるべきなのです。
 例えば企業であれば、商品やサービスを生産し、利益を上げることを目標として組織されるでしょう。家庭であれば、子を産み、育てることが大切な機能でしょう。しかし無為の共同体はそうしたポジティブなものを何も生み出しません。ナンシーらの共同体は、未来の何らかの「成果」のためにあるのではありません。では共同体はどのように存立しているのか?
 「他人の死」の分かち合いとして存在している、と言うのがナンシーらの答えです。それが自分の死ではなく、他人のものであるのは、未来の自分の死が、ハイデガーが述べたように、自分自身の固有性、単独性、かけがえのなさを強烈に意識させるからです。それは同時に自分と他者の間に架橋不可能な深淵を開きます。ハイデガーでは、自分の「本来性」を意識した人間が共存在として他者たちと共に生きるためには、「民族」という枠組みしか準備されていません。それではまたしても共通の「本質」を持った共同体に戻ってしまいます。
 しかし他者の死を複数で見守るというのは、決して自分のものにはなりえない経験、無の経験を分かち合うことです。それは不在の共有です。共通の経験ではあり得ないものを経験することです。『ロンリー・ハーツ・キラー』の井上らのように他人を殺して自分も死ぬのではなく、ネット心中のようにせえのっせで一緒に死ぬのでもなく、避け難い理由で死んでいくもののただ傍らにいること。

共同体は他人の死のうちに開示される。そうしてつねに他人へと開示されている。共同体とは、 つねに他人によって他人のために生起されるものである。それは複数の「自我」(……)の空間で なく、つねに他人である複数の私[たち]の空間である。(注22)

 ナンシーは、共通の本質や価値観や目的を共有するような求心的なコミュニティから、差異のみを共有するようなコミュニティへの移行を論理づけようとしているのだと思います。そこで重要な役割を果たすのが、人間の限界としての「死」でした。人が弱く傷つきやすい存在であり、日常的に死に晒されているのだということを、ただそれだけを共有する。しかし共有された本質もアイデンティティもなく、ただ人が目の前で死に近づいていくという事実だけを共有するような共同体が本当に可能でしょうか? そのような共同体はあまりに脆く、儚く、風が吹いただけで破れて消えてしまうシャボン玉のようなものではないでしょうか?

(注22)『無為の共同体――哲学を問い直す分有の思考』28ページ、西谷修、安原伸一郎訳、以文社、2001年

10 弱さや病を共有する

 もし現実世界にそれに近いものを求めるなら、暴力被害者や依存症者が形成する自助グループでしょう。
 最初に述べたように、『ファイト・クラブ』の主人公は病気でもないのに、病者の自助グループに参加していました。
 星野智幸も近作の『だまされ屋さん』(2020年)で自助グループ的コミュニケーションに強い関心を向けています。
 自助グループの元祖はアルコホーリクス・アノニマス(AA)と呼ばれる、アルコール依存症者の集まりです。アメリカで1935年に二人の依存症者が始めたもので、その後、世界中に広まり、約200万人がAAと関わりを持っていると言われます。現在では、アルコール以外の薬物などの依存症、難病や精神疾患、性被害、虐待経験など、さまざまな「生きづらさ」を抱えた人々によって自助グループが運営されています。
 自助グループでは痛みを抱えるものが集まって、お互いの経験を語り合います。ミーティングでは、聞きっぱなし、言いっぱなしという原則が採用され、相手の行為を評価したり、批判することは慎まれます。そこで語られるのは、悲惨であったり、残酷であったり、あるいは通常社会では罪とされる事柄です。しかしそれらは肯定されるわけでも、赦しを与えられるのでもなく、ただ聴き取られます。その意味で、この集まりで行われているのは経験を持ち寄る以上のことではありません。しかしなぜか、自助グループは高い治癒効果を発揮することが確認されています。
 共通の「本質」、思想、目標を共有するのではなく、差異(わからなさ)を分かち合うようなコミュニティが自助グループだと言えるでしょう。そこでは何も「生産」されない。つまり無為の共同体です。
 親密圏(家族や恋人)の外側に、コミュニティを作り出すという点では、ネット心中のコミュニティにも似ています。ただしそこには生身の身体があり、時間をかけて相手の言葉に耳を傾けるプロセスがあります。
 近年自助グループが急速に注目を集めているのは、同一性を担保としない共同性の探求という20世紀から持ち越された課題と合致しているからだと思います。
 むろん自助グループのみを理想的で完璧な共同体とイメージするのも間違っています。自助グループに馴染めず辞めていく人も、グループ内でのトラブルも存在するからです。現実に存在するグループである以上、何らかの軋轢があるのは当然のことでしょう。しかし、自助グループが夢のようなユートピアではないとしても、それらが「弱さ」を分かち合おうとしているという性格自体は変わりません。
 また、自助グループが社会的コミュニティの普遍的モデルになるとも思いません。現実問題として人は生産しなければならず、理念や目的を共有しなければならない場面も多々あるのは当然のことです。それが社会で生きていくということです。
  しかしそれでも自助グループは、近代が自明としてきた目標や本質を持った共同体とは違うコミュニティのあり方があることを示しています。その先には、自助グループともまた違う、より多様な人のつながりの可能性がひらけているかもしれません。チャック・パラニュークや星野智幸の作品は、読者に、そうした共同体について想像するよう誘っています。(第七回了)

▶倉数茂。1969年生。日本近代文学研究・小説家。著書に『黒揚羽の夏』(ポプラ社、2011年7月)、『私自身であろうとする衝動―関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社、2011年9月)、『名もなき王国』(ポプラ社、2018年8月)、『忘れられたその場所で、』(ポプラ社、2021年5月)など。

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