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芥川賞・当事者性・花田の「党」

文芸批評時評・3月 中沢忠之

 ロシアがウクライナへ軍事侵攻を開始した2月24日に芥川賞の贈呈式があった。そこで受賞者の砂川文次は「海の向こうで戦争が始まろうとしていて、糞みたいな政治家がたくさんいて、めちゃくちゃ頭にきているっていう気持ちで書いていたような(以下略)」と気炎を吐いた。今月の『文藝春秋』には砂川の受賞作「ブラックボックス」と選考委員による選評が載っている。選評は、流し読みした程度だが、砂川と九段理江の評価が高く、乗代雄介がそこにくわわるという感じだろうか。砂川をリアリズムに、九段を実験小説に、乗代を通俗小説に分配して評価がなされているようである。その見立ては外れていないと思う。ただ、乗代の評価を読んでいると、評価する前に仕上がってしまった作家に対して、授与のタイミングを逸した感が読み取れなくもない。「最高の任務」か「旅する練習」だっただろう。砂川も「ブラックボックス」より、それ以前の「小隊」など軍隊ものを推す声がある。たかが文学賞なので結局は何が選ばれてもよいのだが、気になるのは「もう少し様子見をしたい」という発想である。今回も九段について「一作では判断できないという留保の声が強く」(島田雅彦)という選評があった。「俺たちが請け合うからその作風でやってみろ」という賭けがあってこその新人賞なのではないか。乗代は、小学館が定期刊行するエンタメ小説のPR誌『STORY BOX』(3月号)に新作を発表し、5月には単行本化されるそうなので、いっそのこと直木賞がよいのかもしれない。最近の芥川賞は、個人の実存を軸にしたリアリズムが評価される傾向がある。傾向と対策? 砂川も「小隊」より「ブラックボックス」となる。「この小説は、そうした批評的なものだが、思考と文体とが明確なので、抽象的なものも具体的な手ざわりにおいて読み手に受けとめられる。芥川賞が、まず既成文壇への批評である以上、こうした受賞作は有効なはず」(大江健三郎、1994年上半期、受賞作「おどるでく」「タイムスリップ・コンビナート」)という時代もあったのだが。
 砂川の「ブラックボックス」受賞後、作品評が早くも3本発表された。長いものから順に、高原到「ケダモノ、街を奔る――『ブラックボックス』と「十九歳の地図」」(『群像』3月号)矢野利裕「ガードレールと車線のあいだ――砂川文次「ブラックボックス」論」(『文學界』3月号)日比嘉高「戦場は分断された都市の日常の中にある」(『すばる』3月号)である。高原評は、中上健次「十九歳の地図」と比して論じ、矢野評は、自閉症という独自の観点から作品を読み解くものである。いずれもユニークなもので面白かったが、作品評としては日比の書評が私には最も共感できた。ポイントは、実存的な内省が砂川作において登場したことの是非である。おそらく日比はそこに不満をいだいている。一方、高原評は、「規律社会」から「管理社会」へと論を進めて「ブラックボックス」の可能性を引き出すが、高原の用いたコンセプトをそのまま流用するなら、むしろ――砂川の作品名がこれまでの散文性から象徴性を帯びるものに変化したように――軍隊ものの「管理社会」的な描写から「規律社会」的な内省を導入して評価されたことの是非が問われてよい。メッセンジャーと獄中の二部構成にした時点で象徴性を帯びることは必至なのだが。

 「ブラックボックス」を矢野が自閉症の観点から読み、日比がコロナ禍の非正規雇用の観点から読んだように、当事者性が読解の一つの枠組みとして働いているということができるだろう。当事者性が文学の重要なテーマになって久しい。今月の『文學界』も「ケア」関連の小特集に鼎談「『当事者批評』のはじまり」(頭木弘樹×斎藤環×横道誠)が掲載されている。ここでは、エビデンス主義に対して当事者研究・当事者批評が「文学的アプローチ」であることを前提に議論が進んでいく。悪しき文学主義にならなければよいなと思った。
 『文藝』(春季号)の特集「母の娘」も当事者性の文脈と無縁ではない。水上文の「「娘」の時代――「成熟と喪失」その後」は、従来の精神分析的な親子関係――江藤淳から斎藤環まで――から「母と娘」を解放するために、歴史や社会を導入するものである。「成熟と喪失」の時代から、文学作品における「母と娘」の関係の変化が分析される。現状は、男性規範が崩壊した後の「母の支配」のもとにあるという。「とにかくオレに従え」から「あなたのためにやっているのよ」への変化。このような「母と娘」の関係をケア的関係と呼ぶなら、娘にとっては単にうざい(母には過度な負担となる)ケア的関係を批判し、娘の自立を模索した宇佐見りん『かか』(その前史である川上未映子『乳と卵』)を高く評価してみせる。江藤の成熟論が女性の側から更新されていることに注目したい。男性が江藤を引き継ぐ場合、大塚英志のように、成熟の不可能性の後退戦(文学のサブカルチャー化)といったものになりがちだ。その基本路線は江藤以来の男性による自己規定のストーリーだが、水上論では、女性が周囲によって規定される状況を生き抜き、最終的には資本主義の包摂とマッチする「母の支配」においてその問題を作家がどう表現に落とし込んでいったのかを見られてよかった。同じ問題を扱った批評に西村紗知「椎名林檎における母性の問題」(『すばる』2021年2月)がある。昨年のすばるクリティーク賞受賞作だが、批評・評論の新人賞としての役割を担っていた当該賞は今年で休止となった。すでに『群像』の新人評論賞は昨年休止しており、自己責任を焚き付ける「母の支配」の時代の象徴的な出来事であるとはいえる。嫌味でいってません。自分も娘に「お前のためにいっている」的話法をよく行使しているから。ところで西村論だが、彼女の論も、江藤の「成熟と喪失」に寄りながら、椎名のキャリアが二元論的世界から、資本主義の包摂と相即的な「母性原理」の肥大へと力動的に変化する様を追っていた。結論は、困難な自立を論じた水上と真逆で、椎名は「母性原理」に良くも悪くも添い寝したとするものである。この差はとりあえず純文学と軽音楽のジャンルの違いから説明可能ではあるが。

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