孤独を癒すために高い塔に登る


時刻は午前2時、私は卒業論文を書くために資料を机の上に並べ、キーボードを叩いていた。
この研究に先行きがあるのか、それはわからない。どうせたかが卒論だ。大学院に進むわけでもないのだし、ただ教授が考えるボーダーラインさえ越えれば、そこから先のことには意味はない。
そのことが最もモチベーションを奪っているのかもしれない。
教授はこの広大な森を歩き、成果を持ち帰ってこいと言う。私たちは貧弱な装備で無闇に歩き回り、訳のわからないルートをせっせと作っては地図に起こし、その先に何もないことを突き止めてはさらに奥に進もうとする。時には大幅にルートを変え、探検の目的自体を水場探しから食用の果実を探り当てることにする。
だけど実際のところ、すでにあらゆるルートが踏破済みで、もっともっと効率的な手順が既に存在して、そのさきに何があるかは分かり切っていて、先人の作った道からちょこっと首を伸ばして「どうもこの先もシダ植物が生い茂っているらしい」と記録を残す。
その程度のものだ。そしてそれだけで卒業資格を得ることができる。
私はせめて既存の道を逆立ちで踏破できないものかと目論んでいた。どうせ一学部生の研究なんか研究の礎の石ころどころか砂つぶにさえなりえないのだから、ちょっと違う見え方があると示たら少しは面白みがあろうと考えたのだ。
そういうわけで、私は「少しの面白み」を得るために遅くまで資料を読んでいた。その時私はある大学が運営しているデータベースにアクセスし、統計的なアプローチをテストしていた。
結果的にはそのアプローチは捨てることになるのだが、ここで重要なのはそこではない。
大学が運営する古めかしいサイトには今日の訪問者のカウンターが実装されていた。私がアクセスした時、そのカウンターは「1」だったのだが、気づくとそのカウンターは「2」になっていた。
私は、同一のIPアドレスからリロードしてもカウントされるのかと思ってブラウザを更新した。しかしカウントは「2」のままだった。
つまりどうやらこの深夜にこの分野で研究をしている誰かが私の他にもう一人居て、何やら調べ物をしているらしい。
私はこの瞬間以上に、研究へのモチベーションが高まった瞬間を知らない。

孤独の癒やされる瞬間や、やる気が湧いてくる瞬間というのは、このようなものだ。
ポイントは二つあって、一つは「同一の志を持っている誰か」であること。そしてもう一つは、「自分自身が志を持ち、何事かに深くコミットしている」ということだ。

だから孤独なときに、モチベーションが上がらないときに、たった一人で何もせずにうずくまっていてもそれが癒やされるのは難しい。なぜなら、そんな自分と同じ状況にある誰かは、同じようにうずくまっているだけだから、お互いを発見し合うのは非常に難しい。
たぶん、SNSで同じような立場の人と繋がりを見つけることはできると思う。それは重要なことだと思う。ただ、ここから先は想像だが、そこから立ちあがろうとした時一緒に立ち上がっていければいいのだが、彼ら同士の同一性を保つために、互いにうずくまっていることを求めてしまうのではないか。そうなるといつまでもお互いに立ち上がることが難しくなってしまう。
さて、話が逸れたが、私が思うに、今孤独を感じていて、その原因が「周りに人間はいるけれど、志を共にできる仲間ではない」ためなのだとしたら、とにかく立ち上がって高い塔を登り出さなければならないと思う。
すると、遠いどこかに同じように高い塔を登っているひとがいることに気がつく。それだけで心強さを感じる。うずくまっている時とは違う、一人きりでいることには変わらないかもしれないが、感じることができなかった心強さがある。

孤独で身体がだるくて、疲れが頭の先まで染み込んでいて、肩を落としている時こそ、悲鳴を上げながらでも立ち上がって登り出さなければ。自分に本当に同情してくれる人はない。自分を助けて自分を引っ張り上げることができるのは自分だけだ。

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