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「私ブスだから」と話す女性、不幸を列挙するSNSアカウント

「私ブスだから」と話した女性

その人は「自分に自信が無い」と常々口にしていた。
正直、一緒にいてちょっとうんざりするくらいだった。二言目には「私なんて……」と自分のネガティブな側面しか目に入らないようなことを言い、私や周囲の人が肯定的なことを言っても彼女の耳にはどうやら入っていかないようだった。

ある時雑談していると「私ブスだから」家の外に出るのが嫌いだと彼女が話したので、私は「あなたは全然ブスじゃないと思うけど、自分では自分のことブスだと思うのか」と訊いた。
すると彼女はあるエピソードを話し出した。過去に電車で見ず知らずのおじさんに「どけよブス」と言われたというのだ。

私はひとしきり名も知らぬおじさんへの悪態を吐いたあと、疑問が浮かび上がった。
そのおじさんはゴミ野郎だ。しかし、彼女はあえてそんなゴミクズの発言を根拠にして「私はブス」という結論を出したというのか? わざわざ?

おそらくそのおじさんは、彼女の容姿について言及していたのではなく、急いでいたのかイライラしていたのか何らかの理由で態度が最悪で、最低最悪の方法で「道を開けてほしい」というメッセージを発したに過ぎない。
たまたま「ブス」というワードが出てきただけで、例えば「どけよバカ」と言われたら、「私って頭悪いのかな…」と受け止める必要があるというのか? そんなわけはない。その言葉はただの「口汚い二人称」程度の役割しかなく、評価ではない。
運悪く出くわしただけの見知らぬおじさんの言葉を受け止めるのは馬鹿げている。

しかし彼女は、友達や身近な人が「あなたは綺麗だよ」という言葉を拒絶し、代わりに見知らぬおじさんの「どけよブス」を受け取って、「私ブスだから」と悲観に暮れているのだ。

順番が逆

私が思うに、他人のどんな評価も無批判に受け取るべきではない。「あなたは綺麗」も「あなたはブス」もどちらも他者の評価であり、そのまま言葉通り受け取るべきではない、というのが私の考えの前提になる。

全ての言葉にはサブテキストがある。
「あなたは綺麗」という言葉には、「あなたを励ましたい」「あなたを口説きたい」というような意味が外側にあるかもしれないので、「綺麗だ」という言葉をそのまま受け取ると誤解が生じる恐れがある。もちろん、「ブス」という言葉も同様。
人同士の言葉のやりとりはサブテキストの交換みたいなものなので、言葉そのものを受け取ってはいけないわけではないが、十分な吟味が必要になる。

他人のどんな言葉も素直に受け止めるのが馬鹿げているとしたら、人々が他人の言葉を正しいと感じたり受容したりする基準はなんなのか? 
私が思うに、「すでに自分が持っているアイデア」に則した言葉が受容されやすいのだと思う。

今回の場合、彼女は自ずから胸の内に「私なんかブスだ」という思いがあって、見ず知らずのおじさんの「どけよブス」はそのアイデアにそぐう言葉だったので、彼女はそれを採用したのではないか。そして自らの考えはやはり正しかったのだとアイデアの補強材料として記憶した。

誤①おじさん「どけよブス」→ ②女性「私ってブスなんだ」
正①女性「私はブスなんだ」→ ②おじさん「どけよブス」→③自らのアイデアを補強

結局のところ他者の言葉は後付けにすぎないということだ。
彼女自身が自分で自分をどう捉えるかがすべてだ。彼女がAと思っていればB〜Zの言葉は素通りし、たまたまAがやってくるとそれを吸収してしまう。

「私はブス」というアイデアに水をやり肥料を与えて育てているのは自分自身のように見える。

SNSで自分はいかに不幸か力説する人々

いくつかのSNSを眺めていると、自分の不幸を説く人々が大勢目につく。
人生レベルの不幸であることもあれば、今日一日のツいてなさであることもある。共通するのは、不幸な出来事を列挙して、そこに連続性を見出していることだ。私には、その丁寧な作業にそれなりの労力さえかけているように見える。

天気予報が外れて雨に降られ、訪れたお店が臨時休業で……のように、不運が二つ続こうものなら、あとはその日起きたことの全てを不運なこととして漏らさず列挙しようとする。なんならその一週間に起きた不運なことを全力をかけて思い出し、「ああ、今週はずっとツいてない!」という物語を仕立て上げる。しかし、仕立て上げたのはもちろん自分自身だ。

人生レベルの話でも同じように見える。私はこんな家庭で育って、そのせいで学校ではこうで、就職ではこうで、恋愛ではこうで……。もちろん、家庭環境は一般に人格形成などに多大な影響をもたらすといわれるし、そのことを上記の「ツいてない一週間」野郎と一緒くたにはできないが、物語を紡いでいるのは自分自身だという点は同じだと思う。

いずれにしても「不幸な私の物語」を作ることに驚くほど積極的に見える。不幸であることがアイデンティティと結びつき、誇りにしているようにさえ見える。
笑い話にされることを極端に嫌う。でも、一緒に深刻な顔をして他者に同情されても、不幸物語を補強することにしかつながらない。

彼らはどん底の人生に自ら穴を掘っていく。

それは悪いことなのか?

私はそういう人々の生き方や考え方や態度を非難したいとは思わない。どちらかというと私もそういう人間だし。
不幸であろうが幸福であろうが、社会の悪も善も、企業の成長も破綻も、すべてはただそれがそうなっているだけであり、そこに物語はない。全く同じ事象に対し、全く異なる物語を見出すことも可能だ。
それは物語を描くことの無意味さではなくむしろ重要性を意味する。

物語は誰にでもどんなふうにでも描くことができるからこそ、尊い。そこにこそ人間性が表れるから。それを否定したり、「こうした方がいい」と説得したりすることは暴力的だと思う。

「私はブス」と言う彼女の考え方を変えてやろうとか、矯正しようとか思うことは思い上がりも甚だしいことだ。SNSで不幸を紡ぐ人は自ら不幸を語ることによって癒やされたり慰められたりして、なんとか生きていこうとしている。安穏とした人生を謳歌している人々に唾を吐き、お前らにはこの苦痛がわかるまいと睨みつけながら、怒りをエネルギーに換えている。

「どけよブス」と吐いたおじさんの罪深さ

おじさんは自分が誰に何と言ったかなど覚えていない。言われた側にしてみれば人格のない自然災害に遭ったようなものだ。
SNSで跋扈する言葉や、陰口も同じで、彼らの言葉が深く重大な意味など無いのは明らかなのだが、すでに崖っぷちにいる人をほんのわずかな力でも押し出そうとすればどんな結果が起きないとも限らない。ちょっとした一言が、どちらに転ぶかわからない危ういもののバランスを崩すきっかけになる。その責任は重い。
だがおじさんも、彼らも責任など取らないし取れない。
容姿に自信を持てず、それでも美容や自己改善に努力し、自信を作り上げようと奮闘していた人の心をたった一言で壊してしまった。

何も言えない私の無力さ

結局彼女の力になれることは何一つなかった。彼女の容姿を褒めようとしても空ぶるだけだし、おじさんの悪口を言っても彼女の自尊心が取り戻されるわけでもない。
そもそもそんなことは求められていなかったかもしれない。
そんなつもりは全くなくても客観的には私は女に取り入ろうとしてる男にしか見えなかったかもしれないし、そう思われても悪いので力説もできないし。

どんな方法があるのだろう?
私にできるどんなことが存在するのだろう?
今の所、全くわからない。

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