記憶のかたち
私は昔から言葉にするのが苦手なようだ。
口数も少なくて、自分の言葉で思ったことを上手く言えなくて、小さい頃はよく友達と叩き合いのケンカをしていた。
図とか想像とかで自分の理想はできているのに、言葉で上手に伝えられなかった。いま思えばもがいていたんだと思う。
思い返せばこの時から音と文章に強くなかったんだろうなと思う
今日はそんな、自分にとってとても大きな発見をしてしまった。
3歳差の妹と思い出話をしているときによく思うんだけど、自分は映像で記憶に残っていることが、妹には言葉ではっきり残っているみたい。
妹はたとえば、
あの時誰々はすごく嬉しそうに○○○って言ってたんだよ、とか
○○○って言ったら誰々は○○○って言ったの、とか
セリフの中に感情の記憶がものすごく込められているの。
私の語彙力じゃ説明できないくらい、言葉の記憶とそのセリフに込められた感情が強くてさ。
私はたとえば、
文として完璧にできたと思った結論やフレーズも、5分も経てばどの言葉をチョイスしたか忘れちゃうの。
私はたとえば、
その時にどんな表情していたよとか、
あんなふうに足を痛めながらも頑張ってたよねとか、
あの道を超えるとあんな絶景が待ってたんだよねとか、
あの登り坂で急に誰々が走り出してポーズとってたなとか、
あの場所に行った日はすごく日差しが強くてカラッとしていて水平線がよく見えたなとか、
あの部屋の壁紙はこんなだったなとか、
なんかこう、視覚的なんだよね。
同じ時間を共有した相手に、それを思い出として話しても、あんまり覚えてなさそうなことがいままで何度もあった。
それで、たぶん自分は人より少しだけ視覚的な記憶は強い方なのかもしれないと思うようになった。
どの記憶の持ち方がいいとか決めるつもりもないし順番なんてないと思うけど、同じ時間を過ごした相手と思い出の”しまい方”が違うって、なんだか不思議だと思いませんか?
キラキラした海と楽しそうな笑顔、ふとした時に見せる癒された顔、くたくたになりながら歩いた坂道。
そんな光景が、ふとした時に匂いと一緒に蘇ってくる時がある。
私が観るその記憶の映像には、声のトーンや音とか、セリフとかはもう殆ど残っていないし、
そんなに爆笑していたのはなぜだったかも思い出せない
それでも私は
どんなに小さい時の楽しかったことも、
悲しかったことも、
上手く言葉にできなかった不甲斐なさも、
なんとなく視覚的に、いつまでも覚えている
こればかりは、他の人と比べることはどうしても無理だから、主観でしかないけれど
自分はやっぱり、映像の記憶が人より少し強いタイプなんだろうなと思ったりしている。
あの時、自分と同じ時を共有してくれた誰かは、あの時をどんなかたちで記憶しているのかな。
なんて。そもそも覚えているかどうかもわからないようなことに、いちいち考えたりなんかしてしまって。
それと、この文章を書いている時も、文を書くのは本当に難しいと思っている。
出来ることなら図と頭の中のイメージをそのまま記録してくれるノートとかがあれば便利なのにだとか訳のわからないことを思いながら、実は書いています。
もしいま、この文章を保存し忘れて消してしまったら、1000字強の文章ですらも、同じようなことは二度と書けないと思う。
まぁ、だからこそ、いまこの瞬間に思ったことくらいはここに記録しようと思い、気が向いた日は日記を書いてみたりしています。
それにしても、
他の人の記憶のしまい方が気になるなぁ。
おーわーりーます!
ゆりあんわーるど日記でした。
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