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ふびんや 29「土門 Ⅲ」

「大丈夫かなあ。公子さん、膝が曲がってるから、歩行器がないと歩くのがたいへんなの」

「そうかあ。でも、救助は消防士さんがやってくれるよ。レスキュー隊とかもいるんじゃないの? ただ、煙に巻かれるとこわいよね」

しばらくすると、路地の奥から両脇を救急のひとに抱えられたアパートの住人が出てきた。煤けた顔を伏せ、咳き込んでいる。煙を吸い込んだのだろう。額にできた火ぶくれが痛そうだ。

通りに止まっている救急車に向かう通路確保のためマイクを持った消防士が「さがってさがって」と尖った声で怒鳴る。

その声に押されるように、ひとの群れがどよめきながら後ずさってきた。あかねはこともなげに後ろへ下がったが、足の悪いひなはバランスがうまく取れなくて、たたらをふんで、挙句、路上で転んでしまった。

「ひなちゃん、ひなちゃん、だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ。わたし、こういうの、慣れてるから」

てれくさそうな顔で答えるひなをあかねが助け起こそうとすると、横合いから、手袋をした手が伸びてきた。

「だいじょうぶっすか?」と、太い声がした。

大きな体がかがんでひなを起こした。見上げると引き締まった顔がひなを見つめていた。新たに到着した応援部隊の消防士らしい。オレンジ色の消防服を着て、背中にボンベを背負っている。これから路地へ入っていくようだ。

「あ、はい、ありがとうございます。だいじょうぶです」

そこへさっきマイクで注意をしていた消防士がかけつける。入れ替わるように、ひなを助け起こしてくれたひとは去っていった。すばやい動きだった。

「あの、再三注意しているように、ここはあぶないですから、もっと下がっていてください。消火の妨げにもなりますので」

「あ、すみません。ただ、知り合いのひとり暮らしのおばあさんがあのアパートに住んでいるものですから、心配で……」

「関係者のかたですか?」
「あの、知り合いのものなのですが、身寄りがないかたなんで、心配で……安否がわかればいいんですが」

「一〇三号の内藤公子っていうひとなんです」
「あ、ちょっと待っててください。確認してみます」そういうと、その消防士も路地の奥へ入っていった。

「ひなちゃん、だいじょうぶ? 足、痛くない?」

あかねが案じる。ずっとこの目に守られてきた。

「ブザマ デ ナサケナイ デス。 ココロ ガ イタミマス 」

ロボットのような口調でひなが答える。誰かの役に立ちたいのに、反対にいつも誰かの世話になってしまう。体育も遠足も、半分参加で半分見学だった。できることだけ、やらせてもらった。

年上の子供たちに押し付けられたみそっかすの子のように、いつもひなだけの特別ルールがあった。ひなちゃんだから、という言葉で、みんながひなの存在を納得していった。が、自分がいると足手まといになるのではないかという思いは、どんなときもひなのこころにある。

遠い日、窓枠が切り取る運動会。その練習風景。日向と日陰の境目に立って見つめるだけの時間。ひなをこちら側に引き止めるのはひな自身の足だ。自分にできることとできないことの境界線をその足が引く。

陽の射すフィールドにむかって、ひなにできるのはせめてもの応援だけだったが、赤でも白でも、どちらが勝ってもそれはひなのチームではなかった。ただあかねのいるチームが勝てばそれでうれしかった。活躍するあかねが誇らしかった。

「もうー、ひなちゃんたらふざけないでよ……。そうだ、あっちの敷き石のあるところでちょっと座ってようよ」
 

腰を下ろしてひながジーンズをめくりあげると膝小僧に血が滲んでいた。

「あーあ、不名誉な負傷ね」
「痛くない?」

「と言ったらうそになる、なんてね」
「もうー、この子は!」

「あ、煙が細くなったみたいよ、あかねちゃん」
「ほんとだ、下火になったのかもしれないね」

ふたりが空をみあげていると、さっきの消防士が戻ってきた。立ち上がって話を聴く。

「あの、失礼します。さきほどの内藤さんというかたはたった、今、確保されたもようです。いのちに別状はないようですが、これから此処を通って救急車で最寄の大学病院に搬送されます」

「ああ、よかったです。ありがとうございます。……あの、内藤さん、キューピーさんは、持ってましたか?」

「えっ? なんですか?」
「あの、お人形なんです。五十センチほどの大きさなんです。ひとり暮らしの内藤さんとは三十年もいっしょに暮らしてきて、それはそれは大事にされているんです」

「さあ、それはこちらではわからないです。が、とりあえずその報告はしておきます。そういうことで、よろしいですか」

「あ、どうも、お手数おかけしました。ありがとうございました」

消防士はまた路地へ向っていった。ふたりはまた腰を下ろす。

「ああ、よかったね、あのおばあさん、無事みたいで」
「うん……よかったあ……」

「そうだ、キューピーさんはどうなったんだろうね」
「うーん。鞠子さんが燃えちゃったら、公子さん、ショックだろうな」

公子にとって鞠子はただの人形ではなく、三十年という歳月をともに生きていた、いわば同士だ。

「そしたら……ひなちゃんが作ったあのちりめんの着物も燃えちゃったんだね」
「ああ、そうかあ、あれも……燃えちゃったんだね」

「ちりめんの思慕、炎上かあ……」

ふたりは言葉をなくして、うつむいた。ひなの靴に転んだときの泥がついていた。膝の擦り傷がひどく痛むような気がしてきた。

「それでも公子さんが生きてたんだから、よかったって思うよ」

「そうだね。いのちあってのものだねだからね」

「うん、着物はまた作ればいいんだから……でも、鞠子さんがいなくなったら着物もいらないのか……」

「これ、飲む? カイロ代わりに持ってたの」

あかねがポケットから缶コーヒーをふたつ出して、ひとつをひなに渡す。咽喉を通るコーヒーはだいぶぬるくなっていたが、その甘みがありがたかった。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️