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ラルフのためいき 5「レンⅡ」

その言葉が予言になった。数日後の夕刻、点滴だけて生きていた朱鷺さんは、じいさんとオイラしかいない部屋で、雪が溶けてなくなるようにそのいのちを終えた。それを嘆くかのように庭の木が騒がしく葉音を立てた。春の風の強い日だった。

蛍光灯のひかりの下で朱鷺さんの白い顔が生気を失っていく。「ときーー!」胸のなかの空気を全て吐き出すようにじいさんはその名を口にした。

それからじいさんは、朱鷺さんの骨ばった手を握りしめていたごつい手を離し、朱鷺さんの白髪交じりの前髪を労わるようにかきあげた。オイラは天井睨んで吠えた。長く吠えた。オイラにはそんなことしかできない。

じいさんはオイラの頭を撫でて「レン、これでばあさんもらくになったさ、これでよかったんだ。これで」って噛み締めるように言った。

それからじいさんはセンセイ一家に連絡した。センセイの奥さんは朱鷺さんのひとり娘だ。ふとんに寝ている朱鷺さんのまわりに、巧くん、園子ちゃん、きいっちゃんの蒼ざめた顔も並んだ。三人は口々に「おばあちゃん!」と声をかけ、無言の答えを噛み締めた。

「……わたしたちの結婚が母さんのこころの闇のはじまりだったのかもしれない……」

抑え切れない深い悲しみと自分を責める気持ちで泣き崩れる奥さんを、センセイは抱きしめて「けっしてそんなことはないよ。そんなふうに思っちゃいけないよ」と諌めた。そのそばでじいさんが「そうだ、わるいのは俺だ。朱鷺の恨みごとを散々聞かされたし、叱られもしたさ」と呟くように言った。

センセイが朱鷺さんの最後の診察し、死んだことを確認して、葬儀屋が呼ばれた。オイラが「いえいぬ」だったのはそこまでだ。親戚がやってきてもろもろの話し合いが始まったときからオイラは「そといぬ」にもどったから、あわただしく空気が揺れる家のなかのようすは庭先から眺めているしかなかった。

しばらくすると真っ赤な目をしたきいっちゃんがオイラのそばにきてオイラを抱きしめた。そしてオイラの背中に突っ伏して泣き出した。

「えっえっえっ……ラルフをうちにつれていっちゃったから、おばあちゃま、具合が悪くなって……にいさんが言うんだ。えっえっ……そうなの? ラルフ?」

ラルフなんていわれてオイラ調子狂っちゃった。こまったことにきいっちゃんのなかで、オイラは最初からラルフなんだ。こんなときにラルフなんて呼ばないでほしいよ。朱鷺さんがどうして具合が悪くなったかなんてオイラにもわからないさ。そんなの朱鷺さん自身にだってわからなかったんじゃないのかな。

「いいや、そんなことないさ」じいさんの声が聞こえてきた。きいっちゃんは振り向いてじいさんに飛びついた。じいさんはかがんできいっちゃんを抱きしめた。

「ばあさんはそういう病気だったんだよ、喜市。レンのことは悪かったな。勝手に帰ってきちまってな。かんべんな。しかしばあさんはレンが可愛くてな、最後までレンがそばにいてくれて、そりゃあ、うれしそうだったんだ」

「うううん、ぼくこそ、ラルフを横取りしちゃってごめんなさい」

「いやあ、横取りなんかじゃないさ。レンを好いてくれてじいちゃんもうれしいさ」

オイラをふたりがちがった名前で呼ぶのは妙な感じだけど、じいさんときいっちゃんがおたがいのことを思いあうことで慰めあっているような気がして、それはそれでオイラはうれしかったんだ。

しかし、誰かを気遣うことで他の誰かを傷つけてしまうことがあるんだよな。オイラはきいっちゃんのこと、決してきらいじゃないけど、朱鷺さんのことが心配で鵠沼まで帰ってきたんだ。そのことできいっちゃんがどんな気持ちになるかなんて、考えてもいなかったんだ。

おなじようにじいさんもきいっちゃんのためにオイラを世田谷に行かせることで朱鷺さんがどんなに寂しがるかなんて思いもしなかったんだ。奥さんは自分が結婚したことまで遡ってそんな思いにかられているんだ。

それぞれの一方通行だった思いが、朱鷺さんがいなくなったことで反対に向い始めるんだ。これでよかったのかなって疑問に思い始めるんだ。

でもさ、すんでしまったことはこれでよかったって思うしかないんだとオイラは思うよ。きいっちゃんには悪いけど、オイラは朱鷺さんと最後の時間をいっしょに過ごせてよかったと思っている。オイラをオイラとわかってなくて、娘さんやじいさんと間違ってたとしても、オイラは朱鷺さんといっしょにいられてうれしかったさ。

葬儀が済んで、朱鷺さんがお骨になって墓にはいる。その一連の流れのなかでじいさんは一度も泣かなかった。どのときも唇を真一文字に結んで朱鷺さんの遺影を睨んでいた。

それでもオイラと海辺を散歩するとき、オイラを走らせている間に、じいさんが水平線を見つめながら朱鷺さんの名前を呼んでいたことをオイラは知っている。

朱鷺さんがいなくなってから、隣りの樹菜ちゃんがなにかとじいさんのことを案じて様子を見に来てくれた。おかずを多目につくっちゃったから、なんて小皿片手にやってくるんだ。じいさんも心許してた。

剣道場の若い男子には樹菜ちゃんは人気があった。やさしい笑顔なんだ。オイラのことも可愛がってくれてレンちゃんレンちゃんなんてほおずりしてくれたんだ。いいだろう?夕方には樹菜ちゃんもいっしょに散歩した。オイラのリードを樹菜ちゃんが持ってくれて、オイラはなんだかわくわくしてしまったさ。

三人で、いやちがう二人と一匹になるのかな、砂浜を行く。別になにを話すわけでもないんだよ。まあ、オイラはいずれにしても聞き役になるしかないんだけどね。潮風受けながら、ただ、足跡だけをお供にして、歩くんだ。するとさ、地球の縁を歩いてる感じがしてさ、こころにあったかいもんが満ちてくるんだ。

それは言葉じゃないんだ。朱鷺さんをなくしたオイラたちは、顔を見合わせていっしょにいるってことが安心なんだ。変わりなく空は晴れて、波は寄せ返して、海鳥が啼いて、海藻が流れ着く。船は沖に向かい、潮風は鼻をくすぐる。石は丸く、砂は軋み、樹菜ちゃんは微笑む。そんな時間がオイラたちの栄養だったのさ。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️