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ラルフのためいき 1「ラルフⅠ」

勝手口のドアが開き、ドア幅いっぱいの巨体が現れた。西日がその姿を照らす。巨体はオイラに向って声を掛けた。

「ラルフちゃーん、お食事ですよー。今日はおごちそうよー」

なに? おごちそう? そいつはうれしいことだけど、オペラ歌手のような声量で「ラルフちゃん」なんて呼ぶのはよしてくださいよ、なよこさん。オイラ、きまりが悪いから。 

ラルフってテレビに出てた宇宙人のことなんでしょ? きいっちゃんに聞きましたよ。いくら見た目が似てるからって、そんな呼び名にしないでほしいです。ちゃんづけも困ります。オイラ、小柄ですけど、壮年なんですよ。

「ほらほら、骨付きお肉よー。おいしそうでしょう? ラルフちゃん」

フリフリのメイドエプロンをした白髪頭のなよこさんは、ぷっくりした手で皿を差し出し、ウインナみたいな指でオイラの頭をいとおしげに撫でる。

ああ、なんてこったろう。ここへきてもう3ヶ月もたっちゃった。 たしかに骨付き肉はうまいし、なよこさんに撫でられるのも悪くはないんだけど、こんな生活してたら、オイラ、ぜったいに身も心もぶくぶくになっちゃうよ。

「まあ、いい食べっぷりねえ。ほーんとラルフそっくりだわ。奥さまってネーミングセンス抜群ね、ラルフちゃん」

あのね、オイラはミックスだけど、一応、純和風の犬なんですからね。しかも、ちょっと柴犬が多目に入ってますから、鵠沼のじいさんはオイラの名前を「錬三郎」ってつけてくれたんですよ。だから、せめて「レン」とか「サブ」とかにしてくれませんか。 ……「ラルフちゃん」にはまいります。おしりがこそばゆいです。……なんて文句言ってもなよこさんには「ワンワン」としか聞こえないんだろうな。

「まあ、元気ねえ。じゃ、ごゆっくり召し上がれ、ラルフちゃん」

なよこさんは大きなお尻をゆったり振りながら勝手口へ帰っていった。あったかくてやさしくていいひとなんだけど、あの善意の勘違いとソプラノにはなんだか疲れてしまう。きいっちゃんもそう言ってた。

はー、しかし、なんでこんなことになっちまったんだ。 だいたい、犬のトレードなんか、普通、するか? 自分ちで飼ってる犬が一番かわいいんじゃないのか?  それを……。鵠沼のじいさんもひどいよ。

世田谷ってとこは、海はないし、松林もないし、砂浜もないし、空気はまずいし、じいさんはいないし、となりに樹菜ちゃんもいないんだぞ。あるのはこの犬小屋とオイラをここに繋ぎとめる鎖だけだ。 おまけにこの家はお医者で、消毒液と注射の匂いがぷんぷんするんだ。臭くてたまらんよ。じいさんの剣道の道場も汗臭かったけど、犬の鼻には薬のにおいのほうが堪える。

道場へ帰りたいかって? ああ、帰りたいよ。けど、妙なトレードが成立しちゃったから、帰れないんだ。オイラがこっちにきて、じいさんのところにはここにいた犬が行ったんだ。ここでオイラが取り決め破ったらじいさんが迷惑するだろ? だから、さ。

じいさんちに行った犬はここじゃジョンって名前だった。欧米の犬のことはよくわからないけど、ふさふさした毛で白と黒のぶちのやつさ。オイラよりもだいぶ若いし身体は大きいし体力はあるんだけど、ちょっと落ち着きがなくて、悪気はないんだけどお調子もんで、なんだか物事のタイミングが悪いらしくて、家のものを汚したり壊したり、いろいろ粗相をしたらしい。

「ジョンちゃんたら急に駆け出すものだから、よく転ばされたものよ」って、なよこさんが愚痴てたよ。

そうなんだよ。ここじゃ、あのなよこさんが犬の散歩もまかされてるんだよ。ま、健康のために、なよこさんにも運動させようってことらしいんだけどね。で、なよこさんは毎日あの身体で精一杯がんばって、右・左・右・左、ほた・ほた・ほた・ほたって歩くんだけど、四本足のこちらとはどうもテンポが合わないんだ。犬のほうがまちくたびれて、散歩になんかならないね。若いジョンが暴走したのも無理ないかもしれない。

けど、なよこさんも学習したらしくて、近くの公園に行くと散歩ひもをはずしてくれるんだ。オイラは礼儀正しいミックス犬だから、すこしだけベンチに座ったなよこさんの周りを回って礼を尽くして、それから公園で自由に走るんだ。なよこさんはすぐに「ラルフちゃーん、そろそろ帰りますよー」って言うんだけどさ、オイラ、ちょっと聞こえない振りして、もう少し走るんだ。

それから、植え込みに鼻つっこんだりもする。他の犬に挨拶もするさ。けど、ここいらの犬はみんな気取っててさ、面白くないんだ。鵠沼のゴンみたいな豪傑はいないな。繋がれてないっていいよ。鵠沼じゃずっとそうだったのにな。そうはいっても、なよこさんに心配かけても悪いからさ、またすごすごと捕らわれの身になるんだけどね。

ジョンは片方の目のところが黒ぶちになってて、それは眼帯をしてるみたいだから、じいさんは「石松」って名前変えたんだってさ。清水の次郎長とかいうひとの子分がそんなだったらしいよ。で、いつもは縮めて「イシ!」って呼ぶらしい。いいよな、「石松」って。なんかかっこいいよ。ラルフなんかとえらいちがいさ。

今頃はさ、じいさんと石松は、潮風浴びて、海に沈む夕焼け見ながら、海辺の道をふたりして走ってるだろうな。あーあ、いいよなあ。じいさんはオイラの気が済むまで自由に走らせてくれた。思いっきり走ったら松の枝が鳴る音が聞こえてくるんだ。じいさん、元気かなあ。あいかわらず鋭い音をたてて、竹刀振ってるかな。

「錬三郎くん」
おや、センセイの声だ。きいっちゃんのとうさんさ。この家でオイラのことをその名前で呼んでくれるのはこのセンセイだけだ。あとはみんな「ラルフ」さ。声は池のほうからする。あ、そうか、鯉のえさの時間だ。センセイもこれだけは、なよこさんに任せられないらしい。きっと値のはるやつらなんだろうな。オイラはじゃらじゃらと鎖の音をたてて、センセイのそばへ行く。まったくジョンのおさがりの鎖はオイラには重すぎるよ。

「元気かね」そういいながらセンセイはオイラの首筋を触診する。爪の大きい指の長い手だ。
センセイは口ひげを生やした顔をオイラのおでこにくっつけてから、オイラの目をひんむいて調べる。顎もひっぱって口のなかを診る。そのあとくすぐるように体を撫でてくれる。気持ちがいい。

「だいじょうぶだね」という口元が緩んでいる。センセイは小児科・内科の開業医なんだけど、ほんとは獣医になりたかったみたいだ。となりの飼い猫、白猫の小雪ちゃんがそう言ってたよ。

「ここのセンセイは動物のお医者になりたかったらしいわよ。親と揉めたこともあったらしいけど、跡取りだからってあきらめたみたいね。うちのばさまが言ってたわよ」

開業医の跡取り息子ってのもけっこうつらそうだ。なるべくして医者になるってのもしんどい話さ。センセイもこの家に見えない鎖で繋がれてるのかもしれないな。

「錬三郎くん、今度は慣れてくれたかい? いや、その顔はホームシックかな?」

たしかにオイラはホームシックかもしれない。食欲はあるけどね。オイラ、じいさんに会いたいよ。樹菜ちゃんにも会いたい。しかし、このトレード話はほかの誰でもない、このセンセイが持ち出したんだ。どういえばいいのかな、つまり、きいっちゃんとセンセイのふたりがオイラのことを気に入っちゃったらしいのさ。


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