「アイロンのある風景」という短編

短編集がなかなか読み終わらない。

ツンドクにして、ほおってあるわけではない。読み進みながら寝てしまう。

けっして難解でありすぎるわけでも、つまらないわけでもない。

ほほーと感心しているのに、文字が躍りだす。

単行本4ページ分しか集中力が持続しないひとになってしもうたのかもしれん、という不安とたたかいつつ、そんなわずかな集中力にも訴えてくる一編のことを書いておこう。

「アイロンのある風景」

登場人物の過去は決して詳しくは語られない。

2月の真夜中に茨城の浜辺でにただ流木を燃やす三宅さんと、そこに駆けつける順子のおなはし。

名人三宅さんの計算しつくされた焚き火の火は意味あるものとなって、ふたりの過去をすこしづつ照らし出す。

照らされた部分と闇にとけた部分のコントラストが、短編に深みを与える。

語られない人生に思いが走る。その塩梅が短編のいのちなんだろうな。

象徴することのむずかしさはひとりよがりにならないことだな。すべてのひとにわかるというわけにはいかないけど、自分にしかわからないというのは作品として難ありだな。

普通の言葉の奥行きを信じることの意味は深い。

つまり普通の言葉の可能性を、自分が探すということなんだな、きっと。

普通の言葉がより深くこころに残るんだな。

「そこにある炎は、あらゆるものを黙々と受け入れ、呑み込み、赦していくみたいに見えた。
ほんとうの家族というのはきっとこういうものなのだろうと順子は思った」

この二行の向こう側に人生がある。

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こんな感想を書いたのか。まるで覚えていない。

書き残しておくことの意味と忘れることの意味は釣り合うのだろうか。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️