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ラルフのためいき 4「レンⅠ」

でもさ、オイラがレンに戻ってからもたいへんだったんだよ。朱鷺さんはオイラのこと、猫可愛がりしたんだ。オイラは犬なんだけどね。鈴とかつけられちゃってさ。これでも一応おとこなのに、ひらひらとレースのついた服を着せられたりもしてさ。気恥ずかしいことだったよ。

朱鷺さんたら、オイラから目を離さないんだ。また、どっかいっちゃうんじゃないかって不安だったんだろうね。どうあれ可愛がってもらってることはうれしかったけど、思いつめて見境がない感じもあって、逆にオイラは朱鷺さんが心配だった。

じいさんもそうだったみたいで散歩のときよく言ってた。「レン、ばあさん、ちょっとおかしいとおもわんか」てさ。悲しいけどオイラはワンって答えるしかなかった。

実は朱鷺さんはときどきオイラを娘さんの名前で呼ぶようになってたんだ。オイラにむかって真剣に泣いたり笑ったりする朱鷺さんが心配だった。

しばらくすると日が暮れる頃になると、決まって子育てのときのこと思い出して、急にじいさんのこと怒り始めたんだ。オイラを抱いて頭をなでながら泣きながらいうんだよ。「この子が病気のときだって、仕事仕事っていって家にいたことなかったでしょう。わたしがどんなに不安だったと思ってるの」なんてさ。

それも一度や二度じゃない。これまで吐き出さないでおなかの中にためこんだ恨み言が毛玉みたいになっちまってたんだろうな。そいつが寂しくて流した涙にほどけちまったんだな。

朱鷺さんの言葉は出口を見つけた奔流みたいだった。責める言葉、罵る言葉、追い詰める言葉、言葉にも、濁った流れがあるんだな。ほおっておくとどんどんエスカレートしていくんだ。オイラ、聞くのがつらかった。

たまりかねてじいさんが「もういい」って大声出すと、今度は泣き出すんだ。痩せた身体から搾り出すような泣き声が切れ目なく聞こえるんだ。「もう、だれもわたしのことなんか思ってもくれないんだわ」なんて言い出す。

じいさんのつらそうな顔。いくら責められても、時間は巻き戻せないんだよな。若い時代の自分にしっぺ返しくらってるんだな。それでじいさんはセンセイを呼んで相談したんだ。手に負えないと自覚したんだろうね。じいさんのプライドからしたらこれはよっぽどのことさ。

駆けつけたセンセイは気持ちの落ち着く薬を出してくれたんだんだけど、そしたら今度は朱鷺さん、ずーっとぼんやりしてるんだ。

家のなかのことも自分のこともだんだんかまわなくなってきて、日がな一日廊下の籐椅子に座ってオイラをひざに乗せて、庭の木の葉っぱが揺れるのを見てるだけになっちゃったんだ。じいさんが何か言っても、カラ返事ばっかりで、そこから動かないんだ。

しかたなくじいさんがむりやりオイラを抱き取って他の部屋へ行くと、朱鷺さんはしぶしぶ、そのあとについていくんだ。なんにも食べなくなってしまった朱鷺さんの体はだんだん薄くなっていったんだ。

もうじいさんを責めることはなくなったけど、じいさんは以前よりもつらそうな顔になった。心配したきいっちゃん親子が来て話しかけてもうわのそらになってしまった。

ただオイラにだけ、むかしのことを話しかけるんだ。少女のような口調ではにかみながら。「あなたのよこがおがすきだったわ。りりしくて。結んだくちびるのかたちもすき。深い声もすき。ねえ、なにか言ってよ。甲板で風がふいてさむかった。あなたが肩を抱いてくれた。あなたの手のあたるところが熱かった。海のはてまでずっといっしょにいたかったわ。いっしょにいてうれしいのに、ずっといっしょにいたら、どきどきしてくるしくなってしまう」かげでそれを聞いてたじいさんの顔に涙がこぼれたのを知ってるのはオイラだけだ。

朱鷺さんが眠ってる間に、じいさんとオイラは海辺へ散歩にいった。オイラは寄せては返す波のそばを走った。体中のちからを使い果たすつもりで走った。家のなかにいるとあんなに重かった空気がそこでは軽く肺に飛び込んできた。

オイラを気の済むまで走らせてくれたじいさんは、波の音を聞きながら、足元に目を落とし、時折漂着物を拾い上げながら、物思いにふけっていた。

帰り道、じいさんの足跡とオイラの足跡が砂浜に残った。でも、ついたかと思うと波が消していく。飽きることなくくりかえす波に目をやってじいさんは言ったんだ。「レン、すまんがもうすこし、ばあさんにつきあってやってくれ」じいさんにはワンとしか聞こえなかったかもしれないが、わかってるよ、とオイラは答えた。でも、もうすこしという言葉が悲しかった。


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