2005年5月のこと。
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海老蔵の娘姿を初めて見た。
花道からあでやかな顔立ちの藤娘が現れると歌舞伎座は、おおーとどよめく。襲名興行以来、久しぶりの歌舞伎座に現れたその瞬間、海老蔵は劇場内のこころをぎゅっと掴む。
「きれい」
拍手の合間にそんなため息が聞こえる。
このひとの踊りはきめる踊りだ。ある瞬間自分がこの上なく美しく見える角度で体が止まる。どの役者もそうなのだろうが、このひとは自分の見せ方を心得えており、常にそれを意識しているのがわかる。
次々に衣装を変えても美しい。初々しく可憐な、それでいて情の深そうな藤娘の心根が伝わってくる。
がしかし、現実にこのひとの体はたくましく鍛えられた男の体だ。
荒事をこなす男の体がある瞬間、女形の踊りの窮屈さを訴える。あらゆる関節をたわめ、かがみ、傾げても男の体の線がひょいっと現れる。
正面から見たときの首の太さは大衆演劇の座長のようですこしせつない。横を向いて真直ぐに潔くきっぱりと伸びた腕の強さ。一瞬体操の技のように見えてしまいふっと違和がわく。もうすこし柔かさやふんわりとしたまるみがほしいと思わなくもない。
中村雀右衛門さんは内臓から女形になれといわれたのだという。女形の体の線はそんな風な努力で作られている。
藤娘というのは踊りの習い始めにさらうものなのだとトイレに並んだ後ろのおばさんが言っていた。この踊りがはじめの一歩なのだと知らされた。
春興鏡獅子という舞踊では、弥生と獅子を同じ役者が踊る。重い獅子のかぶりものを回し続ける筋力とその対局にあるような可憐さ初々しさを求められる。そのためのステップなのかな、と思ったりする。
いやいやそんなことは全部呑み込んで、なお、思う。
海老蔵は美しい。それが全てだ。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️