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ふびんや 16「鼠志野 Ⅳ」

小さな食器棚には、ひなが陶芸教室で作ったものも入っていて、置き場所が狭いと文句をいうように、清水焼の薄い茶碗が軽くぶつかりあい、ちりんと音がする。

その上の段には普段つかわれることのない不揃いで嵩高い器が場所ふさぎのように並んでいる。それは京都にいたころ、あずが恵吾のために用意したものだ。

料理や季節が焼き物を選ぶ。染付け、赤絵、黒物、粉引、金襴手。「これはいいねえ」という恵吾のひとことが聞きたくて、高価なものではないが、ひとつひとつ時間をかけ吟味して選んだのだとあずは言った。

食器棚の上にかつて恵吾が持ってきた紐のかかった古い木箱が見える。あの箱のなかには鼠志野の抹茶茶碗が入っている。褐色と鼠色がせめぎあうような大胆な色合いの茶碗を恵吾は好んだ。ひなはそんな茶碗がつくりたくて陶芸を始めたのだった。

あずは恵吾がこの家に来るとまずこの茶碗で薄茶を出した。恵吾は季節の和菓子を嬉しそうに口に運び、作法どおりに茶碗の正面を回し避けて、ゆっくり味わいながら飲み干した。

恵吾の長い指はその鼠志野をこころから慈しんでいるように、やわらかに包み込んだ。あのころのあずが見せた、木箱を開けるときのこころはずみと、しまうときのためいきをひなは、はっきりと憶えている。

恵吾が逝ったあと、これが「ふびんや」の店先にならんだこともある。あずがいつも身近に置いて眺めていたいからだった。

泥大島の着物地の上に置かれた茶碗はやはり人目を引き、買いたいと申し出るひとが現れたのだが、これは売り物ではないのだと、あずは、にべもなく断った。申し出た裕福そうな女性が恵吾を連れ去っていくような気がしたのかもしれない。

その後、あずは茶碗を閉じ込めるようにあの木箱にしまい、自分のこころおぼえの日にだけ紐を解くようになった。今はもうこの世のどこにもいない恵吾のこころは、もしかしたらあの木箱のなかにあるのかもしれない。

だったら、あずとひなのこころは……と思いかけて、ひなは勢いよく食器棚の扉を閉めた。開けないほうがいい箱もある。

寝起きが悪くて唸る統三をなんとかなだめすかして、抱きかかえるようにしてあかねが帰ったのは十時を回っていた。

片側を支えながら送りに出ると、空に雲が広がっていた。「夜半から雨になり、山沿いでは雪になるでしょう」という天気予報を思い出し、ひなは首をすくめて家に入った。


瓦屋根を打つ雨の音が、冷えた空気を伝って布団の中のひなの耳に忍び寄ってくる。まだ夜は明けていないようだ。部屋の暗がりが濃い。目覚まし時計を見ようと思うが、体が動かない。こわばっているのは体だけではない。こころのなかのどこかがまた凍りついている。

夢を見た。見たくもない夢だ。

雨が降っていた。小学校の校舎の外に付けられた金属性の非常階段も雨に濡れていた。カンカンカンドンドンドンという音が聞こえる。螺旋の階段をひながもんどりうって落ちていく音が長く聞こえてくる。

その時穿いていた青い紫陽花の模様のついたスカートと階段の縁の丸みとその間からのぞくコンクリートが視野にあった。

いったい誰がこんな夢をくりかえし見させるのだろう。

その一瞬、背中が熱くなった。後ろから押された手の形がわかるほどだった。強い力だった。その手が誰のものか、ひなは知っていた。浦野加奈子だ。近所の商店街の乾物屋の娘は、ドッジボールのとき、威力のある横手投げで気に入らない子を狙いうちする子だった。顎の真ん中に大きなほくろがあった。

京都でのいやなことはなにもかも忘れてしまった、と思いたいのに夢がその封印をこじ開ける。雨の音とともに、あの日のことをまたくっきりと思い出してしまう。本当はなにひとつ忘れてはいないのだとひなは気づく。


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