志の輔らくご春秋座
上終町と書いて「かみはてちょう」と読むそうだ。そこに京都芸術大学があり、その学内に春秋座がある。
はじめまして、の空間で、おかげさまの志の輔らくごを聴いた。(文袋は、志の輔らくごのちょっとした関係者でもあるから)
最初の前座のおふたりのがんばりが伝わる。
噺を覚え、声を作り、流れを整え、現実のなかに架空を重ね、ひとになりきり、ひとのおかしみかなしみを浮かび上がらせる。そんな道筋を懸命にたどっているのがわかる。わかりながら、その先を急ぐ息遣いに、こちらが少ししんどくなる。
落語の熟練度って、人生のそれかもしれんとそのあとの志の輔さんを聴いて改めて思う。
歌舞伎役者が同じ演目を演じてもそれぞれの味わいがあるように、落語家もまた同じ演目のなかにそれぞれの来し方を投影するのかもしれない。
志の輔さんの語る落語の間(ま)は、なぜ、こんなにも、しみるのだろう。
それは、絶句のさまであったり葛藤であったり、閉口やためらいであったり、余韻であったり後悔であったりするのだが、そのわすがな瞬きほどの時間が言葉を超えて伝えて来る思いがある、と、あたしは感じる。
ただ長く生きているだけではわからないこと、たくさんのひとを見つめてその心の動きを感じ取ることを重ねてきてはじめて、言葉にならない間を表現できるのかもしれない。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️