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お言葉思案〜回遊魚と深海魚〜

かなり前のこと。横浜文学館の開高健展の講演で
作家の高樹のぶこさんが言った。

「男は回遊魚で女は深海魚だ」

回遊魚はどこまでも泳ぎ続ける。止まったら死んでしまう。

深海魚は近づいてくるものをじっと待つ。あるいは明かりでおびきよせる。

回遊魚が男で、深海魚が女。

それは実に含蓄のあることばで、なるほどそういうものかとうなづきもしたのだが、最近アクティブなひとに出会うと、男女の区別なく、このひとは回遊魚だ、と思うようになった。

ひとの場合は、えさを求めてというより、情報、あるいはお金、あるいは楽しみ、あるいは快楽、あるいは生きがい、あるいは・・・まあ、ありとあらゆる願いがそこに当てはまるかもしれない。

そんな風に休むことなく貪欲に動き回ることで、よりたくさんのものを得ていく。それが「よく生きる」ことであり自己実現であり生きる意味なのだ、という感じだ。

それができるのは回遊魚である。海の中を存分に泳ぎまわれる資質、才覚や筋肉や気力を持った生き物だ。

では深海魚はどうなのだろう。自分の明かりに寄ってくるもの、情報や人をただ待つだけというのは、今では時代遅れの生き方なのだろうか。

深海魚が深海魚であるのは、そうとしか生きられない資質、才覚や体力や気力やはらわたを持っているということだ。

深海の底を身の下に感じて、そこに押し寄せるすさまじい圧力を受けてなお、そこにいるという宿命。

そこいるというのは位置のエネルギーのように内包された力であり、回遊魚が動きまわるためのエネルギーには、変換しないものなのではないか。

深海魚が回遊魚のように泳ぎ回ったら、きっとはらわたが千切れる。

どんなふうに生きるか、自分にとってなにが一番いい生き方なのかは、自分自身がが決めなければならないということだ。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️