物憂げなドイツ文学者
それはかつて住んだ大井町駅でのこと。
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駅のエスカレーターで、出かけるたびにすれ違う男性がいる。あたしが降りるとき、いつもそのひとはあがっていく。
すれ違うひとの顔をいちいち覚えているわけではないのだが、そのひとはいつもおなじ服を着ていた。
それも、35度を越えようという真夏の盛りに、濃紺のシャツをのど元まできちんと留め、そのうえに裏地の付いた厚手のジャケットを着込んでいた。
こちらはふうふう暑がっているのにそのひとは汗ばむふうでもなく、ロマンスグレーの前髪をなでたりしている、小柄で少々猫背で色白で肉のそげた顔で眼窩も深い。
なんというか物憂げなドイツ文学者のような雰囲気なのだ。
あるとき売店でお茶を買ってからエスカレーターに向かうと、物憂げさんがエスカレーターを降りてほとほとほとと歩いていた。大きなショルダーバックをたすき掛けにして、手には紙袋を提げている。
気になって振り返ると、彼は改札の手前の新聞・雑誌と書かれたゴミ箱に手を突っ込んでいた。物憂げな顔をして新聞を引っ張り出していた。
なるほど、ドイツ文学者の現在のなりわいはこれであるらしい。ホームと改札前のゴミ箱をいったりきたりしているのは、次々に降りていく乗客のあたらしい置き土産があるからだなと納得した。
その日はエスカレーターではなく、ホームで物憂げさんを見かけた。ゴミ箱ではなく、入ってくる電車を見つめている。違う駅にむかうのかもしれないなと思っていた。
ホームに電車が入ってくると、人が変わったように物憂げさんの眸がきらんと光り、鋭い目つきで車内を見つめはじめた。電車のスピードと同じ速さで眼球が動く。ドアが開くと確かな足取りで車内に入る。
そしてちょっと背伸びして、網棚に置かれた漫画週刊誌やスポーツ新聞をすばやく取って紙袋にしまう。
その後も他の網棚をチェックしたのち「間もなく発車いたします」のアナウンスを聞きながら悠然とドアから降りていった。
ドアのガラス越しに物憂げさんの背中が見えた。
ひたむきに生きる姿なのだと思った。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️