夜の東急大井町線

大井町線はほんとにいい電車だったよ。

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大井町線尾山台から大井町へ帰る途中のどの駅だったか、急行の止まらない小さな駅のホームに、大きな声が響いた。

「おーいおーいおーい」

発車しようとする電車を呼び止めているのだ。低い男の声だ。いささか酒気を帯びているようにも聞こえた。

声は先に届き、ひとはおくれてやってくる。ともに帽子を被ったふたりの老人だ。

赤い派手なアロハシャツに白いパンツ、カンカン帽子にグレーのエナメル靴の老人が、足が先に出て後ろに斜めに傾いだ格好で戸口にたどり着く。

ドアに手を当てたまま後ろを向いて「ほらほらほら」ともうひとりをうながす。

そっちの老人は老人会の集まりに出るような地味な装いで「ほうほうほう」と駆けつける。

ふたりそろって支えあうようにして座席に座る。

夜の9時、窓の明かりが家並みを浮かび上がらせる住宅街を、縫うようにして走る小さな電車の最後尾の車両に客はまばらで、老人ふたりの声ばかりが響く。

「こいつは大井町までいくんだろ?」
アロハのじいさんが地味じいさんに訊く。

それもわからずに乗ったのかい?とこっそりつっこむ。

「おう、そうだ」
「だったら俺に任せろや」
「いやいやいや」

「なんだよ~。大井町に着けばこっちのもんだ。あっこは俺の縄張りだからな。あんたを連れて行きたいいい店があんだよ」
「いやいやいや」

「まあいいじゃないか、いい店なんだよ。俺の顔がきくからさ」
「いやいやいや」

各駅停車の電車が律儀に止まり、そのたびに地味じいさんがため息のように駅名を口にする。

それをきいてアロハじいさんは「まだ大井町じゃないだろ?」と確かめる。

もうしたたかに酔っているらしいふたりの会話は
ふらふらと寄り道して、堂々巡りしてなかなか終点が見えない。

その会話を聞かされているこちらのほうが、それでその店に、行くの行かないの?と焦れてくる。

どうしても説得したいアロハじいさんは、時折地味じいさんの肩を抱いたり顔を近付けたりする。そのたびに地味じいさんは「いやいやいや」と首を振る。

その図はじいさんがじいさんを口説いているように見えなくもないな、と思ってふっと苦笑するとアロハじいさんがこちらを向いた。

目の涼しげな整った顔だが、どこか放蕩の影ありと値踏みしたりする。

地味じいさんのほうはどうといって特徴はないが
その向こうに実直な人生を感じさせる。

人生のどの地点でふたりは出会ったのだろう。大昔か、最近か。出会ってから今に至るふたりの人生の曲線は、どこでどんなふうに分かれていったのだろう。

今の年齢をはじき返そうとするアロハじいさんと
そういうもんさと受け入れる地味じいさん。

ふたりの会話はどこで噛み合うのだろう。昔の話か今の話か?

「おおいまち」と地味じいさんがつぶやく。
「おおー、おりるおりる」

ふたりはまた支えあうようにして立ち上がる。改札を抜けたアロハじいさんが振り返り、まだその手を離したくないんだとでもいうように「まだいいだろう。いい店なんだから」と繰りかえす。

白っぽい駅の明かりのなかで、アロハシャツにプリントされた赤い模様が妙にくっきり浮き上がっていた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️