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京都で会ったひとたちのこと 3

つづき

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あたしは一応このたびのクラス会の呼びかけ人のひとりである。大学時代の友人ががんを病んだことを聞いて、生きて会えるうちに会っておくべきひとがまだいるなあと思ったからだ。

とはいえ当時の我らのクラスは、自慢にもならないのだけれど、なんともやる気のない、まとまりを欠いたクラスで、いつも何人かの小さなグループ単位でてんでに動いていたのだった。

だれかがなにかを呼びかけてもどうにも反応が悪かった。ただ顔なじみにだけなって、4年間なんとはなしにいっしょの講義を受けた、というだけの記憶しかないのだ。

まあ大学なんてそんなものかなとも思うが、そんなよそよそしさの延長なのか、ずっとクラス会がなかった。

なにしろ名簿がないので思い立っても連絡のしようがないのだ。そこで、自分が年賀状交換している何人かに声をかけ、そこから伝言ゲームのようにして伝えてもらい、連絡先を広げていった。

しかし、それで連絡先がわかったのは19人しかいない。というわけで、19人に声をかけ、そのうちの10人が京都駅の八条口に集合したのだった。11時1階の新幹線改札口に待ち合わせた。

早めにそこに立っていると、おそるおそるという感じで顔をのぞきこむひとが現れる。一瞬名前は思い出せないのだけれど年齢を重ねた顔のどこかに当時の面影がある。

「ああー」「ああー」「ああー」という声が重なる。思いが時空を超えている。

東口に行ってしまって集合場所がわからなくなった、という人を迎えにいったら入れ違いにそのひとは現れて、今度は迎えにいったひとを迎えに行く、なんて絵に描いたような待ち合わせ劇をやってしまう。そのてきぱきと行かないもたもたした感じが、まさにわたしたちなのかもしれない。

さっちゃん、スズヨちゃん、ワンタン、マユミちゃん、ひろみさん、せつこさん、カズヨさん、マツノさん、ミツコさん、ハマチャン。10人のクラス会が始まった。


家族に杜撰といわれながら、一応はクラス会の企画は立ててあり、11時17分のプリンセスラインバスというのに乗って、卒業した学校を訪れることになっている。

母校は京都以外の出身の人が多く、私のように京都を離れた人間もいるので、卒業後母校を訪れることがないだろうから、きっと懐かしくて、うるうると来ないまでも思い出を暖めることはできるのではないか、というもくろみなのだ。

それにこの真っ赤なプリンセスラインバスは母校が終点になっていて、つまり系列の中学、高校、大学の生徒たちが利用するバスなのだ。昔のプリンセスが乗っていけないわけはない。お休みなので、学生は乗っておらず、往年のプリンセスが席をうめる。

京阪七条のあたりから皆の記憶が蘇ってくる。この坂を4年間上り下りしたんだ、と。「ええー、この道はこんな広かったっけ?」なんて声が聞こえる。

変わってしまった空間であり同時に変わらない空間でもある通りをバスは登っていく。
 
どこかから「うままち」という言葉が耳に飛び込んできた。みながそろって「うままちー!?」と復唱する。馬町は母校のある通りの裏の通りの名前である。

倉橋由美子さんの小説で見つけたときも感激したものだったがその「馬町」という名はどのひとにも妙に深く記憶に刻まれており、なんだかこまってしまうくらい懐かしいのだ。

あたしの場合は馬町の尼寺で茶道と華道をならっていた。学園祭の氷などの買出しも馬町へ走ったものだった。

豊国廟という豊臣秀吉のお墓への入り口のバスターミナルで降り、守衛さんにきちんと挨拶して学校構内へ入る。礼儀にかなったおばさんたち。「良妻賢母」を育てる学び舎だったかもしれない。

校舎入り口で記念の集合写真を撮る。通りかかった在校生、遠い後輩にシャッターを押してもらう。もう一回、とかお願いしても、快く引き受けてくれて最後には「もういいですか?」とたずねてから去っていった。ほら、いい子じゃない、われらが後輩も。

それから中庭で互いに自己紹介をしあった。

つづく

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️