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そんな日の東京アーカイブ 田園調布

エッセイのお教室の帰りに、多摩川台公園の紫陽花を見に行きましょうと誘われた。

わたしはどちらかといえば一本道の人間で、来た道を帰らないと迷子になってしまうようなところがある。それでも、道草をする、という感じは悪くない。糸の切れた凧になってどこかに飛んでいってしまいたいという思いもなくはない。

誘ってくれたのは、ご主人を亡くし、一人暮らしをされているあのご婦人。東横沿線にお住まいと聞いている。お年は60歳代の後半、パーマ気のない短髪はグレー。薄化粧された顔の知的な二重まぶたの眸がよく動く。

そのひとは、この公園はわたしの散歩コースなの、といいながらいかにも歩き慣れた風に、公園内の坂道を苦もなく登っていく。

行く道の両側に紫や水色の紫陽花が競うように鮮やかに咲いている。土のPHによってその花の色は変わるという。従順さ、あるいは自分のなさか。翻弄される、ということか。

持ち重りのしそうな花。豊かであでやかな女のイメージ。みずみずしくあってこそ美しく、水が足りなければ立ち枯れる。その姿の醜さ、悲しさ。その落差のせつなさ。回遊する歩道を行きながら花に重なる美しい女の人生を思う。損なわれる美。失われる想い。

紫陽花の花壇を抜けるとタチアオイが咲いていた。数え切れないほどの蕾をつけてせいいっぱい背を伸ばす立ち姿。

「主人が通っていた病院のそばの道端に、朱のタチアオイが咲いていてね、気に入ったみたいだったから、種を集めて植えたのよ。去年は咲かなかったけど、今年は咲くかしら」

そんな何気ない言葉も、登場人物の不在を思うと、舞台が暗転する。生者と死者の境目に立っているような気がして、なにも答えられず、ただ、聞いて、頷くだけだ。

この公園には古墳があったため、開発が免れたという。たくさんの季節の巡りを生きてきた樹木が、うっそうと枝を重ねている。雄雄しいクロマツが力強く天を目指して伸びていく。エノキ、コナラ、ソメイヨシノ、マユミ、ミズキ・・・馴染みの木を見つけて嬉しくなる。

こぶを作ったり、ねじれたり、うねったりしたながら、どの木も立派に枝を張り、伸びていく。ここでは、はからずも死者の眠りに助けられて、生きているものの濃密な時間が流れているのだ。

幸田文さんの「倒木更新」の話をした。そのひとの大きな眸が輝いた。倒木の上でしか育たない新しいエゾマツの芽。どんな命の終わりに意味がある、と思う。そしてそれは、生きて在るものがそれぞれに読み解くものだ、とも。

この公園でみどりにそまり、この空気を胸に入れ、ふっと想いが和むことがあるのだろうか。東屋で思いにふけることもあるのだと聞くと、埋められない喪失感に触れてしまったような気がしてうつむく。溢れてくる思い出と向かい合うのは楽しいのだろうか。辛いのだろうか。

帰りは田園調布のほうへ降りた。長嶋茂雄の家があるのよ、といわれて見学に行く。亡くなったご主人に一から野球のルールを教えてもらったのよ、と笑う。「ゲッツーだとか、ヒットエンドランだとか」

倒れてリハビリ中だというこの家の主を思う。門の前で頑張ってくださいと声をかける。

青々としたイチョウの並木を歩きながら、秋の姿を思い描く。はらはらと黄色く染まった葉が舞うことだろう。物悲しくもあでやかな舞であるに違いない。

駅が近くなるにつれそのひとの言葉が少なくなるような気がしてきて、わたしのほうがおしゃべりになる。とりとめなく思いつくままに話す。道草の終わりが近いのだと思うとなにやら別れがたくなる。もう少し、遠回りしてもよかったね。

「また来週お会いします」と言って別れて改札に入った。4,5歩歩いてふっと振り返るとそのひとが手を振っていた。


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