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パジャマパーティー 1

そんな日もあった。夏の思い出。

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迷走する台風の行方を案じながら長野へ向かったのだが、誰かの日ごろの行いがいいのか、たまたまか、長野に向かう途中から空が明るくなり、新幹線を降りるころには雨がやんでいた。

駅に降り立って、やっぱり涼しいと感じる。台風の接近で重たくなった空気を吸ってきた肺がなんとも軽やかな空気に満たされる。これがなによりのおもてなしなのかもしれない。

友人の実家の一族が夏のあいだだけ借りている一戸建てに呼んでもらうのは4度目になるだろうか。軽井沢の駅から旧軽側に歩いて10分ほどのところにあり、そのお宅の森のように茂った木のあいだをくぐり抜けて玄関にたどり着く。

2001年9月11日に私はこの家にいた。前日から泊まっていた。その日も台風が来ていたのだったか、何しろ大雨が降り続いた。庭の飛び石が水につかるくらいに降った。自治体の広報車が出てがけ崩れの注意をしていた。

夏の盛りを過ぎた軽井沢は次第に静かになっていく。空気が冷たくなっていくのに比例して人がいなくなる。もともと属していた社会へひとりかえりふたりかえりしていく。

たちのよくない病気の手術後、友人はここで療養していた。元のポジションに戻ることが免疫力を下げることがわかりきっていた。そこで彼女は実家に身を寄せていたが、今は母親ひとりになってしまった実家にいると、それはそれなりに精神的な負担も大きいので、いられる限りは軽井沢で過ごす、と決めていた。そこへ呼ばれた。

その日の雨は分厚いカーテンのようにわたしたちふたりを世界から切り離した。病人はごろごろするのが仕事なのだから、部位は違うが同じように病気で手術したことのあるわたしはそのお相手には最適だったかもしれない。

互いの息子が幼稚園のころからの付き合いで、しっかりものの彼女とうっかりもののわたしはトータルすれば私のほうがお世話になっていることは多いのだけれど、それでも互いが大切で、いやになるほどいろんなことが起こったそれぞれの年月のあいだに、こころのほんとうを飾ることなく話せる相手になっていた。

屋根を打つ激しい雨音を聞きながら夜中じゅう、話した。

どこの糸口からでも話が始まって、いろいろに飛んで広がって、おかしくて悲しくて、泣いたり笑ったりして、時間が過ぎた。病気や家族のこと姑とのこと、互いが抱える問題は一朝一夕に解決しそうもないのだけれど、それまでの流れを知りながら、その瞬間の思いを聞き会うことで、それぞれの思いがすこしでも軽くなることを、わたしたちは知っている。

次の日も雨は降り続いた。この家の大家さんのおばさんが食べ物がないのでは、と案じて「花豆のおこわ」を差し入れてくれた。雨のなか、大きな雨靴はいて合羽を着込んで、旧軽の和菓子やさんまで買いにいってくれたという。

花豆というのは黒豆の3倍くらい大きな黒っぽい豆でパックのなかでもち米のなかにまぎれている姿は、嫌われ者の虫を連想させて、いささかひるんでしまうのだが、食べてみるとこれがなんとも鄙びた味がして美味しい。主張する味ではないが、ホッとする味で、なじむと後を引く。大家さんの思いもいっしょいいただいた。

そんなふうにして時を過ごして、思いを残しながら、遅れた新幹線の乗ってようやく家に帰りついた。そして、ほっとしてつけたテレビに、あのビルにつっこむ飛行機が映っていた。たくさんのひとのいのちが一瞬にして消えていったテロの日。忘れられない日だった。

それからいくつかのクッションを経てもとのポジションに戻った彼女は3年前に再発し、また手術をした。人生にはいったいいくつこんな落とし穴が用意されてるのだろうと思う。その穴から抜け出し、立ち上がるまでには気力が必要だ。

しかし、それからたくさんのことを割り切り、賢く生活を立て直し、新たな空間を得た彼女には、息子の結婚、孫の誕生といううれしい贈り物が待ち受けていた。

生きていることのご褒美のように、今年もうひとりも息子も嫁候補を引き合わせた。裏道の大木の影のなかを歩きながら「地味なかんじの子だけど、息子にお似合い」そういって彼女は笑った。笑いながら涙を浮かべていた。

今年は私のほかにもうひとりお客さんがいた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️