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話すということ

スマホ以前の何台か前の携帯電話のこと。

新しいと思っていたものがいつしか時代遅れになっていくなあ、と思うし、ひとの思いのふかいところで、変わらんものはずっと変わらんな、とも思う。


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ようやく携帯電話の機種変更ができた。

前のが壊れてからもなかなかお店にいけなかった。歩けないわけではないが、細かい設定の説明を聞くのが苦痛だった。

あれこれの割引率のことなどこまかに言われると、なんだか胸苦しくなってしまう。分数の割り算みたいな分野には足を向けたくないのだ。つまりわたしは頭が悪い。
 
しかし年の瀬だし、と自分をそそのかして出かけ、なんとか事は成就した。やさしいおねえさんがむずかしいことはかなりはしょって、離乳食をあたえるように情報をほぐして言ってくれたので
なんとなく納得したような気分になれたのだった。ほんとにわたしは頭が悪い。

では、前のがどんなふうに壊れたのかというのと
通話時に相手の声は聞こえるのに、ただ自分の声だけが相手に届かない。何度言ってもどんな大声で言っても、相手は「もしもし?もしもし?」を繰り返す。

なにかしら空間をさえぎるものがそこにあって、自分だけが隔離されているような気分になる。仕方がないので通話を切ってメールにするか、他の電話で掛けなおすかしていた。

ふっと、この居心地の悪さ、疎外感は、なじみのあるものだと気づいた。顎の手術をした直後、気管切開されていて声が出なかった。

ことばが伝えられない苛立ちはあの時感じたものと似ている。自分の体の内側に思いがあり、思いは言葉になって外に出ようとするのに、それをうまく出すことができない。相手の手のひらに一字ずつ書いていた、そのもどかしさ。言葉なしに思いは伝わりにくい。

こちらはなにも言わずにいて、相手だけがしゃべるという状況。そういうのは暮らしの中ではけっこうある。

声の大きいひと、他人を圧したいひと、目立ちたいひと、「オレの話を聞け」というひと、聞く耳もたぬひと、我田引水びと……。始終いっしょにいると疲れてしまうひと。

まあ、そういうひとはすごくたくさんいるのだけれどそういうひとでもこちらが無言でいると、話さない。壊れた携帯に対峙したときのように.ねえ、ちょっと聞いてるの?と問い、応答を求める。

はい、わたしはここにいてあなたの話を聴いていますよ、という保障がなければひとは話さない。相槌を打ち、共感し、肯定の言葉がなければ、ひとは思いを伝えることができない。それは精神対話師や傾聴ボランティアや電話相談員が、常に心がけて為していることだ。

あるサークルの忘年会で秋田出身の主婦が言った。

「おとさんしか話するひといねのに、おとさん、なかなか話きいてくんないの」

社宅に住んでいるといろいろ気苦労もある。こどもが大きくなるとなかなか新しい友人もできない。

「なにかしらもやもやしてるんだけど、それがなんだかわからなくて、だれかに話たくてもうまくいえないの。おとさんもおめのいうことわからねっていうし」

「ここでこんなに話できて、うれしい。話してるうちに自分のいいたかったことがわかってくるのね」
 
秋田美人で声も美しいそのひとの秋田なまりのそんな言葉がずっとこころに残っている。話せるひとがいないことのせつなさを思う。

壊れた携帯はお役ご免になってわたしの手元にある。もうどこにも通じることはないのだけれど
交わしたメールがそこに眠っている。

「では12時に川崎で」なんて短く軽い言葉のやりとり。映画を見に行く約束の言葉。映画のあと私たちはあんみつなどを食べつつ話せるひとがいることのありがたみを感じながら、うれしいことに笑みを浮かべ、どうにもならないことを共に泣いてお互いのことを聴きあう。そんな日の記憶がそこに眠っている。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️