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そんな日のアーカイブ 瀬戸内寂聴講演 文学館への期待

徳島県立文学書道館館長としては、はじめての講演なので緊張している。控え室で胸がどきどきした。ダラダラ話すものだから50分が短いので心配だ。聴衆がインテリ顔だから圧迫感を感じている。

自分が文学館館長を引き受けるとは夢にも思わなかった。有名な文人が徳島にはいないと思っていた。徳島の看板になるような有名人は派手なひとはいないのであまり知られていない。徳島の人や子供が故郷に文人がいないと思うのはかわいそうだから、文学館が必要だと思った。それは作家として生きるうちに強まった思いである。

ユニークな文学者が徳島からたくさん出ている。
いるのに知らないのはもったいないことと思った。それで県に申したてたが相手にされなかった。寂聴の資料や道具も差し上げるから建ててほしい、客が呼べるかもしれないから、となおも言った。

何年か経って、立ち上がる雰囲気があった。知事公舎を提供すると言ってくれたものわかりのいい知事だったが、ワイロを取ったとかでその知事が捕まってしまった。まだ文学館が建ってなかったのでびっくりし残念に思った。花嫁衣裳に墨をかけられたような気分だった。

しかしたちあがっていたから、そのままたちあがった。たちあがったら、「文学書道館」になっていた。ハメラレタ気分だった。文学と書道の両方が付いた他県にはないユニークなものができた。

知らなかったが、徳島は文学者以上にすばらしい書家をたくさん輩出している。両方文化だから、鬼に金棒である。仲良く共存している。

徳島の県民性はのんきで陽気である。昼日中から阿波踊りを踊って一年中のうさを晴らし踊り狂うのどかなところである。だから文学館に対するイメージがない。「文学館へ」と言ってもタクシーの運転手が知らなくていけない、と言われた。

そこで手土産もってタクシー会社に自らおもむいて、ただの切符を渡して来てもらおうと宣伝したので、今では「文学館」というと連れていってもらえるようになた。

情熱や意識のないところに文学館を建てることは大変なことである。館長にはなりたくなかった。2代、引き受けてもらえたが、引き受け手がない。

なってもなんのメリットもない。お金もくれない。旅費など持ち出しばかり。内情を知ると他のひとに頼めず、去年4月から、仕方なく引き受けている。中にはいると見えてくるものがある。

文学館ががらんどうなのは感心しない。たくさんのひとに来てほしい。文学の愛好者は無限に多くはないが、書道をするひとは非常に多い。いろんな流派があり、先生から弟子ピラミッド型の裾野まで広がっていて、バスを連ねてきてもらえる。観覧者増える。書道さまさまだ。

県立なので費用が少なく、貧乏で、人が雇えず、物も買えない、建物の運営もたいへん。お金がどこからももらえない。身銭を切ってまかなってきた。今後どうなるのかと思うと死ぬにも死にきれない。文学文化を理解してほしい。どこも貧乏して赤字でフーフーしている。

文化のなんたるかを知る人は多くない。国民が文学をしらなくなった。本も読まなくなった。今の本作りはなるべく薄く、行をあけて、というふうになってきている。びっしりつまって厚い本は売れない。

自分が面白くない。書いた喜びがないと売れてもうれしくない。みなさんが本を読めないから、国語を勉強しなおしてほしい。文学を楽しく読んでほしい。文化遺産としてふるさとの作家を各人が知ってほしい。こんなひともいたと思い出すために文学館は必要。

自分自身もなかなか文学館をわざわざ拝見するための旅はできなかったが、最近はできるだけ文学館へ行くようにしている。

縁故がある人は感慨が深い。徳島文学書道館に資料のあり文学者をあげてみる。

▽荒政人はこむずかしい。

▽生田花世は「青鞜」に参加した。生田春月という詩人と結婚し、進歩的家庭を作った。徳島女学校の一期卒業生。岡本かの子を書くときに存命だったので中野でお会いして教えてもらった。買い物かごを提げた格別ちいさなおばあさんだった。今の自分よりおばあさんに見えた。
源氏物語の講義をしている。性愛について感じなかったが、かの子とつきあったから、不倫の恋愛、一平が不能で赤い男が有能であったことだとか事細かに教えてもらい、不倫がつらく喜びあるものだと知った。だから源氏物語の講義ができる。
春月はハンサムで女にモテた。花世の手紙だけで感動し顔を見ないでラブレターを出した。花世は男にモテるタイプではなかったが返事の文章がうまくて春月は感動しのっぴきならず結婚した。その後春月が女を連れ込んだとき、縁の下に潜ってことの一部始終を聞き、拳固で春月を殴った。すばらしいひと。
質素な服を着て、買い物かごのなかには大根や惣菜が入っていたが、強烈な印象を受けた。かの子繚乱を送った。
青鞜のなかで有数の女性の存在を徳島のひとはほとんど知らない。

▽海野十三は元祖SF作家。

▽加賀乙彦も徳島出身。

▽佐古純一郎

▽武原はんは元芸者。のちに一流の舞のひと。俳句を作る。「ほととぎす」の同人。

▽中野好夫は徳島中学卒業。晩年まで徳島弁が抜けなかった。東京女子大の先生だった。

▽新居格は批評家。恐妻という言葉を作ったひと。

▽野上彰

▽橋本夢道は俳句のひと。愛妻の句を作った。東京であんみつを発明した。

▽富士正晴は文人、ユニークな作家。絵や陶器もたしなんだ。同人誌「ヴァイキング」の主宰。徳島出身で、晩年、遊びにきて、酔って、徳島弁で「わしがおまえに惚れたとせんかい」と口説かれたことがある。くだを巻いて朝に帰ったがあとで「覚えがない」と言っていた。

▽北条民雄はハンセン氏病の小説家。川端康成が推薦し世の中に知られたが本名は伏せている。 

▽モラエスはポルトガル人。外国人で日本の文学、日本を愛したひと。小学校1年のとき偶然道ばたであった。無精ひげをボーボーはやして、西洋こじきと言われていた。
ポルトガルはヨーロッパ一、女が不美人で男は美男子の多い国で、モラエスもモテたようで中国などいたるところに女がいた。「およねとこはる」を書き、徳島のおんながいいといって墓も徳島にある。     
 

どの県でもそれぞれたくさん歴史に残る作家詩人評論家生んでいる。それを知ることによって、ふるさとを自慢して顕彰しふるさとに誇りをもつようになる。

文化遺産の形あるものは決して永遠ではなく、戦いや地震や放火などで滅びる運命である。文字に書かれたものはどんな時代が来ても、電子本ならその形で残っていく。永遠なるものになる。

文化にお金をかける国は武器にお金をかけなくなる。人間にはなにが大事か。命の栄養となるもの、先人の残した文化の遺産を愛するようにする。

儲かるものを追っていると国は衰微する。将来を背負った子供たちが模倣し、子供たちに誇りやる気を与えるものを残しておくことが緊急の仕事である。戦力よりも文化が大事だと言い聞かせ、肌から感じさせるのが教育の第一歩である。

九州には松本清張館がある。立派な文学館で、いまや北九州市の観光資源になっている。北九州市の自分史文学賞の審査をしたご縁がある。

遠藤周作文学館は沈黙の舞台になった長崎に建てられた。遠藤の妻が身を挺して整備している。たゆまぬ努力、見事な奉仕である。

開館の日、嘘つき遠藤のバチがあたったのか大雨ざんざんぶりだった。自分が「エイッ」というと雨があがった。尼さんなのにカソリックの教会で講演をした。初めての経験でおかしかった。遠藤さんにはいろいろ相談にのってもらい、出家の報告をしたのだった。

この文学館は大きな赤字はなさそうだが、それは遺族の熱意のたまものだ。誰かがやらないと、続かない。

井上光晴文学室は没後十年目に佐世保の崎戸町の歴史郷土資料館内に開設された。芥川賞なんていらない、なんて言ってだけどほんとはほしかったのね、そういう嘘つきで、うそばっかり。文学碑も嫌がっていたが、誰かが建てるのなら許そうと言っていた。

その文学碑の除幕式の日に自分は気分が悪くなっていけなかった。寂聴は病院へ行って死んじゃったという誤報が飛んだ。行かないとたたりがあるかもしれないので後ほど崎戸へ行った。

崎戸は明るく美しい町になっていた。見上げると大きな堂々とした文学碑があった。

「のろしはあがらず のろしはいまだあがらず」


現代の日本を憂いた詩が刻まれている。それだけ井上文学を地元のひとが高くかっていた。妻と娘の荒野さんが幕をひいたという。おわびの講演をした。

鹿児島川内市にあるまごころ文学館は昨年でき、行った。有馬三兄弟、とくに里見とんゆかりの文学館である。川内市はちっともユーモラスでなく、いっぺん通ったら忘れるような所だった。

薩摩国府のおかれたところだが殺風景だった。聞いてみると、台風がしょっちゅう通るので壊れても惜しくない家を建ててあるのだという。合理的な町だ。

有馬三兄弟の父親が川内市に生まれ東京に出て成功し、大財閥になった。里見氏は山内氏の養子になった。まごころというのはうそをつかないこと、自分に正直なひとだった。

川内市出身の山本實彦氏が主宰した「改造」ゆかりの作家のものも展示されている。山本さんの記念館でもある。

いろんな町で郷土の文学者を顕彰する文学館がある。


(寂聴さんはもっとしゃべりたかったのだが、時間がきましたと係りのひとに告げられ、ここで終わった)

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️