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Go ahead 2011

第三火曜日の夜に青柳恵介氏が語る骨董にまつわる楽しいお話を聴きに行っていた。

いつも、友人ふたりと日暮里駅で待ち合わせて夕食を済ませてから、教室である谷中の韋駄天さんへむかう。時間にしたら10分あまりだろうか。

その途中で足が痺れ出した。

友人ふたりはあたしより年上なのだが、 勤労婦人で、本人達は意識していないだろうが、あたしから見ると、足の運びがまことに早い。

すっすっすっ。目的地へ向かうための歩行。教室が始まる時間にはまだ間があったが、身に付いた歩行速度、対角線を歩くような無駄のない感じ。

遅れないように歩いていると、足の裏から痺れ始める。ふくらはぎ、もも裏、最後は臀部。足全体が突っ張る感じ。

おいおい、あたし、どうなるんだろう、と思っていると傍を車が通ったので、これ幸いに立ち止まる。が、瞬時に回復するわけもなく、引きずるようにして、ようやく目的地に着く。

「こんばんわ~、おひさしぶり~」とはずむような友人達の声を聞きながら、ひとり落ち込んでいた。

かかりつけのセンセイは、しびれや痛みはすべて、脊柱感狭窄症に由来する、という。

だましまだし生活してもう我慢ならん、となったら手術するのだが、それまでは、つまり、我慢するわけだ。

だましだましの生活というのが、こんな場面に現れる。

ひとのペースに合わせて歩くことが出来ないこと。自分のペースに合わせてもらわねばならないということ。これは気持ちのしんどいことだ。

そのしんどさに釣り合う天秤を考える。考えて、よけいしんどくなる。たくさんのことをあきらめねばならんな、と思う。

つねに誰かと一緒にいたいわけではない。もともと団体行動は得意ではない。引く手あまたの人気者でもないし、気がつくとみんなとちがうところにいたし、ひとりでも平気だし、だから、いいんだけど、いいはずなんだけど、

こんなふうに突然現実を突きつけられると、うっとなり、後ずさりしてしまう。

後ろ向きになりそうな思いのなかを泳ぐ。自己憐憫の大波を被って溺れそうになる。苦しくなって息継ぎをするように、過ぎた時間を思う。

予後のよろしくないとされる悪性腫瘍ができて、手術して、そのあとも生きて来た。あのときでおわっていたかもしれないのに、この年月を生きてきた。すごいじゃないか。

あきらめたことは山ほどあるが、新しい出会いもあったし、自分のこころのなかにめっけたことはもっとたくさんあった。

生きることの意味はより明確になった。ありがたい、と素直に思う。御の字、だ、と。

そうだ、くらしのさまが変わるだけだ。わたしはわたしのペースが変えられない。だれかのペースに合わせることが出来ない。

それはわがままではなく、しかたのないことだ。変えられないことは嘆いても嘆いてもかわらない。受け入れるだけだ。悩む必要はない。

これからはだれかの背中をみながら歩くことになる。時間がかかる。

が、だからこそ見える景色もある。いとなみの意味を思案できる。思いが深くなる。それが天秤の片側にあるものだ。失くしたものはいつもこんなふうに釣り合う。



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