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ラルフのためいき 7「きいっちゃんⅠ」

だけど、朱鷺さんがいなくなったことをそんなふうに乗り越えられなかったのは、センセイの奥さんと、きいっちゃんなんだ。朱鷺さんがこの世に残したたったひとりの娘である奥さんは、おかあさんをなくしたわけだし、それはものすごく悲しいことで、無理もないことなんだ。

しかも奥さんの場合は、反対されながらセンセイと結婚して家を出たわけだからさ、自分が朱鷺さんを寂しがらせてしまって、それが原因で朱鷺さんのこころの具合が悪くなったって思ってるから、どうにも気持ちがしんどいんだよ。

思うに、じいさんがさ、優秀な警察官で、仕事をがんばればがんばるほど、家にいる時間がなくなってきて、朱鷺さんはいつもさびしかったからさ、ひとりむすめに持ってる愛情を全て注いだんだろうと思うよ。

オイラも経験したけど、朱鷺さんの愛し方ってさ、すごく相手のことを大切にして、あれこれ心を砕いて、尽くすって感じなんだ。でもそれは、どこかで相手を自分のふところのなかに閉じ込めて、独り占めしたいって気持ちの裏返しみたいな感じにだんだんかわっていくんだ。で、一回でもそう感じてしまうと、朱鷺さんのすべてがものすごく息苦しくなってしまうんだ。

空気がうすくなるんじゃなくて、濃くなりすぎちゃうんだ。胸の中に重たい空気がいっぱいになってしまうんだ。だから窓をあけたり、散歩にいったり、引っ越したくなってしまうんだろうなって思う。つまり朱鷺さんの愛し方が相手を疲れさせてしまうんだ。

オイラは犬だからさ、どこかでしらんぷりできるけど、奥さんはひとりむすめだしさ、きっといっつもそんな愛情に振り回されてきたわけだからさ、そりゃあいろいろ理不尽だとおもったろうし、衝突もあっただろうさ。だからどうしても家をでたかったんだろうな。

でもこんなふうに朱鷺さんが逝ってしまうと、それまでの自分がしてきたことが、果たしてそれでよかったのかなって思いはじめるんだよな。自分が選んだ道に疑問をもちはじめるんだ。それはつらいことだよ。

まっすぐな道を歩くのは、これが最善なんだって信じてるからさ、いくら遠くても歩き続けることができるんだ。でも迷い道はそうはいかない。その迷った分の多さも堪えるけど、この道でいいのかどうかわからなくなっちゃうと、次の一歩をふみだせなくなってしまうんだよ。そんな感じで、奥さんの表情の晴れない日が続いたらしい。

きいっちゃんは、毎日奥さんのそばにいて、いつもその憂鬱そうな浮かない顔を見て、その深いため息を聞いていたわけだよ。はっきりとした言葉で言われたら、言葉で返すことができるけど、ただせつなげにため息をつかれたら、どうしていいかわからなくなるもんだと思わないかい?

きっちゃんってさ、そういうとこ、他のきょうだいよりもずっと敏感に感じてしまうんだよなあ。若いとか年取ってるとか関係ないんだよね、そういう感じ方ってさ。

まだ小学生なのに、きいっちゃんてさ、そばにいると不思議にこころが落ち着く子なんだよ。いっしょにいるとなんかすごく居心地がいいんだ。なんでかなって思ってよくよく見てると、きいっちゃんがなんかしてるっていうんじゃなくて、そう、うまくいえないけど、吸い取り紙みたいに、相手の気持ちをすーっと受け取っちゃう子なんだ。うれしい気持ちも沈んだ思いもみんな丸ごとね。だから、よけいつらいんだよなあ。

きいっちゃんは、次男だから、じいさんちの跡を継ぐことになってて、鵠沼にもしょっちゅう行ってたんだけど、ほら、例の誘拐事件があってから、それを思い出させてもかわいそうだっていうんで、だんだん足が遠のいてたんだ。

そうそう、そういえば、あのときも、きっと犯人の女のひとの寂しさがきいっちゃんに伝わってきてたんだろうなあって思う。だからこわかったけど、いっしょにいたんじゃないかなあ。

それってどう考えてもしんどい話で、だから、あの時、オイラに抱きついて泣いちゃったんだろうと思う。幼いきいっちゃんは、あのときはもう、ひとの気持ちを受け取るのにほとほと疲れてたんだよ。ずっとぎりぎりのところで我慢してんだろうなあ。

だから、ひとではない犬のオイラだったら、反応を気にしないで、無条件に自分の気持ちをぶつけられるっておもったんだろうな。センセイもじいさんもそこらへんのことがわかってたのかもしんないな。けど、そんときは、オイラにはオイラの事情もあって、逃げ出しちゃったんだけどね。申し訳ないけどね。

きいっちゃんは、自分が言い出して、オイラを自分たちのところへつれてっちゃったわけだから、なんていうのかなあ、罪の意識っていったらおおげさだけど、通夜のときにじいさんに言ってたみたいに、朱鷺さんの死んじゃったのは自分のせいなんじゃないのかなって思っちまったんだな。絶対そんなことないのにな。

で、突然のことだ。きいっちゃんの声が出なくなっちゃったんだ。

それって、いろんなことを感じ過ぎて、きいっちゃんのこころのなかで、アクセルとブレーキを同時に踏んだように、身動きとれなくなってしまって、そうして、言葉が擦り切れてしまったんだよ。かわいそうになあ。こんな小さい子が、よっぽどしんどい思いをしたんだよね。

声が出ないってことは、どういうことかっていえば、相手の言葉は理解できても、自分の気持ちを相手に伝えられないってことなんだよ。そりゃあ筆談って手もあるけどさ、それは方便でしかないもんな。

ひとのこころの不思議な作用だよな。オイラは犬だから、オイラの声は人間には、ワンとかキャンとしか聞こえないんだから、きいっちゃんとよく似た立場かもしれないけど、でもちがうんだ。

どうあれオイラは相手にむかって自分の気持ちをぶつけてる。おなかすいた、とか、散歩行こう、とか、怪しい奴がきた、とか、相手がわかろうがわかるまいがオイラは声をあげる。伝えたいって思いがあるからさ。

けど、きいっちゃんは無意識かもしれないけど、自分のための言葉を捨てたんだ。自分のことを罰するように、自分の気持ちを閉じ込めちゃったような気もする。

その話を聞いたじいさんが「かわいそうに」って思いつめたような声を出した。かわいい孫がそんなふうに苦しむさまを見ているしかないなんてじいさんもつらかったと思う。

そのうちに、きいっちゃんは、頷いたり、首を横に振るだけで日々を過ごすようになって、表情も乏しくなっていったんだ。心配した家族が病院やクリニックに連れて行ったけど、「のんびりさせてあげてください」なんて言われるだけなんだ。

そのとき、世田谷の家に、ジョンが来たんだ。すこしでもきいっちゃんのこころがやすらぐようにっていうセンセイの心遣いだったらしい。センセイは動物好きだしね。ジョンてのは屈託のない奴だからさ、きいっちゃんも気が楽なんじゃないかなって思ったんだよな。

けどさ、ちょっとあの若造には荷が重すぎたんだよな。きいっちゃんのことおきざりにして駈けていくような元気のよさが、かえって光と影みたいに、きいっちゃんのこころのくらがりを際立たせてみせたみたいなんだ。

そう、頑張れないひとに頑張れって言い続ける善意みたいな感じさ。そういうのって、はた迷惑なもんだんだよ。オイラ、朱鷺さんのそばにいてイヤっていうほど感じたもんな。折れた矢を放てって言ってるようなもんさ。無理やり放って傷つくのは本人なんだよ。

ひとことも話せないきいっちゃんのこと、センセイも奥さんも心配したさ。家族もなよこさんもな。けど、みんなが心配そうな顔を見せれば見せるほど、きいっちゃんはますます表情を曇らせるんだ。

それで、学校には事情を話して、きいっちゃんはしばらく休学して鵠沼のじいさんのところであずかることになったんだ。じいさんとオイラと樹菜ちゃんと土門がいて、道場と海と空と波と、砂浜と潮騒と貝殻のある鵠沼へ、ね。


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