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ふびんや 42 「闇坂 くらやみざか Ⅵ」

僕はおじいさんのことを何も知らなかったんだ、とまた衝撃を受けました。もしそうなら、おばあさんとの結婚も離婚も計画的なことだったと考えられます。なんというひとだろう、と、今度は僕が押し黙ってしまう番でした。

「母親はわたしの知らないあいだにいなくなっていた。たぶん、夜のあいだに無理やり連れ去ったんだろうな。朝起きると、母親がいなかった……

二月の寒い日だった。広い屋敷中を裸足で走って探したんだけど、おかあさんはどこにもいないんだ。もうこの家にはいないんだってわかったとき、自分が凍ってしまいそうな気がしたよ。気がつくとお手伝いさんに抱きかかえられてた……

ようやく落ち着いて母親の部屋に行くと、みんなで母親の荷物をまとめていたんだ。母親がこの家にいたという痕跡を残してはいけない、と父親に厳命されたらしい。客間に飾ってあった雛人形も送り返すというので、みんなが来る前に、わたしはこっそりお雛さまを自分の部屋に隠したんだよ」

そこまで続けて言うと、父はふっと言葉を切りました。きっとたくさんの思い出が湧き上がってきて、それ以上は言葉にならなかったのでしょう。

きっとそのときからこの人形は父にとっての母親だったのです。なにかつらいことがあるたびにすがるようにこころを告げていたのです。この汚れや傷みはこの人形が父の悲しみを吸い取ってきた証なのです。今、僕は憶測ではなくそう実感します。

「それで、その人形、今はどこにあるの?」

「それがわからないんだ。中学に入ったときにいつまでもこんなことじゃいけないって思って、どこかに仕舞いこんだっていう記憶はあるのだけれど、それがどこだったか、思い出せないんだ。……もういちど、会いたいよ。あの雛人形に」

「家にあるんなら、僕が探してみる。僕も会いたいよ」
「ああ、頼むよ」

そんな会話を交わしてまもなく父は容態が急変しました。おひなさまに再会できずに父は逝ってしまいました。四十年あまりの時間を経て、それがこんなふうに思いがけないところから出てきて、あの部屋のものは何でも持って行っていいとは言ったものの、今すぐに手放すのは父に申し訳ないような気がするのです。ふびんやさんなら、そこのところはよくよくわかっていただけると思うのですが…・・・。

清岡の話の途中から、ハルタは涙を流していた。時々白いエプロンの裾を持ち上げて拭っていたが、話が終わると大きな肩を震わせて顔中真っ赤にして盛大に泣き出した。

「エッエッ……そ、そうなんです。そうなんです……わたしが申し上げることではないと思いますが、ほんとうにご苦労なさったんですよ、旦那様は……エッエッ……でも、そんな大変なときに、そんなお話をなさっていただなんて……あーあ、おいたわしい……」

ハルタの大らかな泣きっぷりは、逆に清岡の気分を落ち着けたらしく、思いつめていたような表情が次第に柔和になっていた。

「ああ、ハルタさん、そんなに泣かないでください。はい、これ」

清岡は苦笑しながらティッシュの箱をハルタに渡した。ハルタもきまり悪そうにして、その箱を抱えて部屋を出て行った。ハルタがドアを閉めると廊下から入り込んだ冷気があずの足元にまとわりついた。

「そうでしたか。そんなことがおありでしたか。清岡はんのおこころうち、お察しいたしますわ。お父さんの思い出のお品やもんねえ、やっぱり思い入れがおありやろうし、手元に置いて大事にしてあげてほしいと思いますわ」

「ああ、じゃあ、家に置いておいてもいいですね」

「そやけど、このお人形、お家に置くにしても、このままの姿ではあまりにしのびないとちがいますか?」

「そういえばそうだ」

「わたしは実家へ帰らされはったおばあさんのことを思います。産んで育てたわが子と引き裂かれた母親の気持ちも、そら、つらいもんやったと思います。お人形の今のこの姿ではその時のつらい気持ちのままでやはるみたいで、見てるほうがせつのうなりますわ」

「ああ」と言って清岡は人形を手に取り、その頬を撫でた。

「あの、どうですやろ、このお雛さん、しばらくうちに預けてくりゃあらへんやろか。汚れたとこも傷んだとこもきれいにしてあげたいなあっておもいますねん。せっかく暗がりからでてきゃはったんやもん、きれいになった姿で、おとうさんのお墓に参らせてあげたらどないですか」

その言葉を聞いて清岡の顔に安堵の表情が浮かんだ。

「ああ、そうだな、そうお願いしようかな」

「はい、そしたら、預からしてもらいます」

あずは名残惜しげな清岡から雛人形を受け取って部屋を出た。


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