年寄りの繰り言
あっと思うと手にしたものを落としている。割れないものならいいが、台所ではそうはいかない。もう元には戻らない欠片を拾うその手を見つめる。
指先のちからがなくなった。ちからを制御する能力が低下した。脳と身体の器官とのつながりがうまくない。つまり衰えたのだ。年を重ねているということだ。
それだけでなく、物忘れを含めてうまくいかないことが重なる。
きっかけはささいなことで、そこからぬかるみに沈んでいく。眠れぬ夜がそのぬかるみを深くする。
なんともまずいことになってきた。
と、そんな今朝、手にとってひらいたページに
こんな言葉があった。
「老若の境界線は越してしまってからでないと見えないものか、行くてには見えなくて、ふりかえって見るとはっきり浮いてでる線らしい。
意地の悪い不自由な線があったものだと思うけれど、凡愚なものにだけ意地悪で不自由な峠かもしれない。
どうにもあれ、わたしは一々その境界線をふりかえって見ては立ち止まって、へええ、へええと驚きを以って若かった来し方をはるかに眺めわたし
また別な驚きを以って老いて行く行く末を望んで小手をかざしているきのうきょうである。
恐ろしく新鮮である。凡愚のみの知る新鮮かと思う」
幸田文さんのちぎれ雲という本にあった。
文さんは1904年生まれで、これが書かれたのが昭和28年、つまり1953年だから、50歳になる前の作品だ。
「恐ろしく新鮮である」
観察者の眼が自身の老いを見つめている。好奇心が老いを解剖していく。健全なまなざしだ。
老いていく人間が機能を失っていく引き算は、生まれたての赤ん坊が自分の身体の仕組みになじんでいく足し算と帳尻があっているのかもしれない。
あたしの日々はまだまだ不等式になってるはず、と思うがこれからの日々、ゆっくり時間をかけて
そこがイコールになっていくのだろう。
つまりは0から始まって0に帰る、それだけのこと。
この手からたくさんのものが滑り落ちていくことも、その帰り道の順調な道筋ということになるのだろうか。
同じ文さんの本に露伴の言葉がある。
「おれが死んだら死んだとだけ思え、念仏一遍それで終わる」
そこへ向かっていく。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️