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ふびんや 27「土門 Ⅰ」

ひなは墨を磨る。恵吾が遺した硯に墨を磨る。硯の陸に水を数滴垂らして、墨を半直角に傾け、「の」の字に磨る。濃くなったらそれを硯の池のほうへ落とし、また数滴、水を垂らし、穏やかな気持ちで墨を動かす。急かず慌てず、それを繰り返す。

ゆったりと磨って、墨の炭素の粒子を細かくする。そのきめの細かさで墨の色がきまり、その細かさゆえに、繊維の奥深くまで染み込んで、紙に馴染む。力なきもののように磨るのだよ、いとし子のつむりを撫でるようにゆっくりと磨るのだよ、と恵吾が教えた。

ひなは細筆を取って年賀状の宛名を書く。お習字は恵吾に習った。筆は親指とひとさし指でつまむように持って、曲げた中指を添える。褒められたくて、幼いひなは懸命に練習した。恵吾が朱の筆で大きな丸を付けてくれる、その誇らしさをひなは今も忘れない。

注文を貰った顧客ひとりひとりの所番地と姓名を毛筆で書いていく。いつからか、これはひなの仕事になった。師走の季節の決まりごととはいえ、時間がかかる。この十年のあいだに、年々顧客が増えたこともある。同時に物故された客の確認もしなければならない。

欠礼の葉書で確かめているうちに、思い出されることも多く、そんな気持ちの道草でまた時間が過ぎていってしまう。今年は、あずの小旅行の日から書きはじめて、もう何日もかかっている。

「どうえ、今日中に終わりそうか?」

文机に向うひなの傍らで、あずが針を動かしながら訊ねる。納品の期日が迫った正月用の晴れ着にしつけ糸をかけているところだ。古着を仕立て直すのではなく、あずに新しく着物を仕立てて欲しいという注文が続けてくるのもこの季節だ。

正月前後はいつにまして「ふびんや」の商品が動く。和風雑貨店の稼ぎ時である。店には、注文品を取りにくる客や、ちょっとした心づけやお年賀にする小物を買い求めにくる客の出入りがひんぱんで、その対応に追われ、なかなか自分たちの時間が取れなくて、今日はどちらも夜なべ仕事になった。

柱時計は十時を回っている。風が強くなってきたようだ。踏ん張りきれずに、古い家が揺れる。忍び寄る寒さにともすればかじかむ手を温めながら、互いの仕事を進める。遠くサイレンの音が聞こえる。

「うーん、何事もなければ大丈夫だと思うけど」筆を動かしながら、ひなが答える。

「何事って、こんな時間に何が起こるっていうんや」

「わかんないけど、なんか気持ちがざわざわする……これはあんまりいい感じじゃないと思う。……ま、なんというか、備えあれば憂いなし。つまり葉隠れですかね」

「なにをいうてるんや、この子は。あんたのきまぐれ超能力はわかってるけど、年賀状ははよせんと、おついたちに着かへんさかいに、せっせと書いてな」

「はいはい、こころえてござる」

「あとどれくらい?」
「あとは……今年からのお客さん分と、商店街のひと」

「そうかあ、だいぶ書きおわったな。えーっと、清岡さんて……誰やった?」

ひなが書き終えた一枚を手にとってあずが思案する。年々名前の覚えが悪くなる。

「うーん、きよおか……たくみ………。あ、思い出した。亡くなったおじいさんの羽織りの裏でベストを作ってくれって言ってきたおとこのひとだ」

「ああ、あの大学のセンセか。痩せて猫背のおかたやったわ。柄は鷹やった。けっこう派手なもんやった。見かけによらん、思い切ったことしゃはるなあって思たわ」

名前は忘れても自分が作ったものは忘れない。

「そうそう、真ん丸眼鏡で、あの……そう、父が読んでた、永井荷風みたいな顔だったね」

「ふんふん、わかるわかる。このあいだのバスツアーで、よう似たおひとがやはったわ。鉛筆みたいな体、したはったけど、よう食べるおひとやったわ。その奥さんは岡本かの子みたいやった。こわそうでなあ。世の中、いろんな夫婦がいるもんやなあっておもたわ」

「ふふ、つまり、いい感じのひとはめっかんなかったわけね」

「まあ、日帰り満腹ツアーやもんなあ」

「じゃ、この清岡さんなんて、どう?」
「どうって、うらなりはん、やんか」

「うらなりって、いうかあ。でもあのひと、左手にペンだこが出来てたね。左利きで、手書きの原稿書くひとなんじゃないかな。ちなみに薬指にリングはなかったよ」

「へー、そやったかなあ。気がつかへんかったわ。あんた、ホームズみたいやな」

「ソウナンダヨ、ワトソン君。チュウイリョク ノ モンダイ ナノダヨ」と、抑揚のない発音でひながふざける。

「あほなこというてんと、手をうごかしよし」

そんなことを言い合っていると、突風が吹きつけたかのように店先のガラス戸が大きく鳴り、軋みながら開いた。その一瞬、商品を覆う埃よけの白い布が、入り込んだ空気の流れになびきながらふわりと舞う。

何事かと驚いたふたりが顔を上げると、あかねがそこにいた。その顔つきがいつもと異なる。光の加減か、なにやら思いつめているようにも見えた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️