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ふびんや 18「鼠志野 Ⅵ」

どれぐらいの時間が経ったのかはわからないが、そんな浮き沈みを何回かくりかえしたあと、光を感じるところまで浮かび上がってきたときに、泣き声が聞こえてきた。

――ああ、また、おかあちゃんが泣いたはる。きっとおとうちゃんが東京へ帰ってしまわはったんや。朝、家を出て行くおとうちゃんを、東京で待ったはるひとがやはるさかいにしゃあないねん、て言うて見送ってから、おかあちゃんは自分の部屋でひとりで泣かはる。うち、なんでも知ってるもん。

――東京で待ったはるのが、どんなひとかも、うち、知ってるもん。おとうちゃんの奥さんが待ったはるねん。うちのお兄ちゃんになるひとがふたりやはって、弟さんのほうが難病にかかったはるさかいに、ほっとけへんねんや、っておかあちゃんが教えてくりゃはった。

――おとうちゃん、今度はいつ来ゃはるねんやろ。京都のクライアントさんのところへ行くって言うて、おとうちゃんは東京の家を出て来ゃはる。おとうちゃん、そうやってなんぼ嘘をついてきゃはったんやろ。嘘をつかんとおかあちゃんに会えへんねん。どこまでもどこまでも、おとうちゃんが嘘をついててくりゃあらへんかったら、おかあちゃんが泣いてしまわはる。

――「あんたのおかあちゃんは泥棒や」て加奈子に言われた。そやけど泥棒はおとうちゃんのほうやて、うちのおばあちゃんが言うたはった。おとうちゃん、いっぱい嘘ついて泥棒になってしまわはったんやろか。

――ああ、まだおかあちゃんは泣かはる。ああ、違う。泣いてるのはおとうちゃんや。ああ、おとうちゃん、また嘘ついてきゃはったんや。かぞえきれへんほど嘘ついて、おとうちゃんはおかあちゃんに会いにきゃはる。やっぱりおとうちゃんは、おかあちゃんのこと、すきやねんなあ……

ひながうっすらと目を開けると、白い天井と恵吾の蒼い顔が見えた。

「……ああ、よかった、気がついた……ひなー、よかったよー……ほんとにひどい目にあったなあ……かわいそうに……」

くるむようにひなの頬に手をあてている恵吾の表情が崩れていた。恵吾が泣いていた。はじめて見る姿だった。

「ひな、いたかったやろう。ほんまにかわいそになあ、こんな目に合わされてしもて。なんの因縁やろなあ」

病室のどこかから聞こえてくるチセの声も震えていた。

「ああ、ひな……ひな……ひな……」

あずは恵吾の反対側でひなの手を握りしめ、ただその名だけを何度も口にするのだった。


「ひなー」とあずの声がする。

あれからひなはまた寝入ってしまったらしい。部屋はだいぶ明るくなっているが、雨の音は続いている。ぼんやりとしたまま布団に起き上がると、あずが部屋に入ってきた。楽そうなパンツスーツを着て、きちんと化粧をしている。

「おはようさん。起きてた? 夕べは先に寝てしもてかんにんな」

「うん、統三さんを帰すのがたいへんだったよ。あかねちゃんがぶーぶー言ってた。で、母はだいじょうぶなの?」

「おかげさんでよう寝てすっきりや。下に朝ごはんできてるし。あとはよろしく」

「えっ、もう出かけるの?」
「そら日帰りやしな、はよいかんとな」

「でも雨だね」
「そやな。とんだ雨女や」

「山沿いでは雪になるって。気をつけてね」
「あんたも店番あんじょうたのみまっせ。あ、それから、年賀状の宛名書きもやっといてな。机の上に一式用意しといたさかいに」

「ああ、あれかあ……」
「欠礼の葉書を確認してから書いてな」

そういい残して部屋を出るあずの背中にひなが声をかけた。

「ね、母、静岡で、だれかいいひと、見つけてきたら?」
「あほ」

振り返ってあずが笑った。

新聞配達のバイク音が聞こえる。これから商店街が目覚めていく。 

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