見出し画像

夕焼け

「夕焼け」という詩がある。吉野弘の作品。

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた
うつむいていた娘がたって
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅でおりた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横合いから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて――
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。


*****

誰かのために何かをするときに、その果てにいつも悩む。その果てで下唇を噛む。

誰かのために、為しても為しても果てはない。しかし自分に果てはある。

自分の果てを情けなく思い、果てを越えようとさえ思う。

その果てを越えない自分を、好きになれない自分を持て余す。

誰かのために何かを為さない自分は、理想の自分ではないのだと思う。

しかし、果てを越えた自分は、もはや自分ではないのではないかと思ったりもする。

果てを越えることは、こうである自分をこうであるべきと考える自分に、向かわせる素晴らしいことかもしれないが、無理をして果てを越えた自分に、復讐されることも少なくはない。

いろいろ難題を抱える家族の中で、わたしはどこまでいけるだろう。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️